十河城の戦い
永禄七年(1564)11月11日
さて、十河城の北に陣取った為松若狭率いる一条軍主力部隊は、十河城に降伏を勧告した。
十河城は決して堅固な山城ではない。
しかし、低湿地に囲まれており、例え大砲を撃ち込んだとしても、兵が近付くのは容易ではないのだ。
しかも、そこにまだ千を超える兵が詰めていて、無理に攻め込むと被害が大きくなることが予想されるため、できれば開城させたかったのだ。
しかし、回答期日の11月1日までに返答がなかったことから、砲撃を開始する
一条軍は兵を二手に分け、本隊は城の北にある中尾に陣を敷き、大筒を擁する別働隊は城の南にある外山という高台を目指した。
いくら農閑期とはいえ、水田では土地が軟弱過ぎて、砲撃に適さないからである。
城兵は、南の高台を取られまいと打って出て来たため、北の本隊を大手に寄せて、鉄砲や矢、海賊直伝の焙烙で攻撃する。
城の南側でも小競り合いが始まるが、鉄砲隊に蹴散らされ、こちらも城内に退却した。
そして、砲撃準備完了の狼煙が上がると、北の本隊は中尾まで下がり、夕刻近くに砲撃が始まる。
こうなると、後は一方的である。
翌日正午まで断続的に砲撃を行い、その後南北から前進を開始すると、ようやく降伏した。
城内は凄惨を極め、名のある将も多く亡くなっていた。
幸い、城主十河存保は確保され、彼の名により、安富、寒川への戦闘行為停止の書状が発出された。
そして本日、両氏から承知の旨の書状が届き、雨滝城は開城されたとのこと。
「これで、讃岐は無事、平定できましたな。」
「全く、いつもながら大筒と鉄砲様々じゃな。」
「はい。今までの規模の城ではどこに隠れていても、上から降ってくる玉から逃れる事はできませんな。」
「確かにそうよな。特に讃岐は平城が多い。少しばかり水堀があったとて、何の役にも立たぬ。」
「しかし、此度は山越えが無かったから兵も元気じゃな。」
「確かに、讃岐には大した山すらございませんな。まあ、山の形は独特ですが。」
「烏帽子がニョキッと生えているような山よのう。あれは初めて見たわ。」
「さて、では虎丸、昼寝、引田の各城に使いを出し、城を接収させよう。」
こうして11月15日までに讃岐内の各城を管理下に置き、安富、寒川の兵を引田に集結させた一条軍主力二万二千は、海岸線沿いに進み、阿波に入国し、撫養城に迫るが、城は戦うこと無く降伏し、近隣の鈴江、沖の島、中村の各城を降伏させて、勝瑞城の東約半里の江尻に陣を敷いた。
既に勝瑞城の西には一条軍一万二千。南には安芸・長宗我部勢一万がおり、既に勝敗は決しているように見える。
これまで攻撃していなかったのは、降伏勧告を行っていたこともあるが、敵城兵の離脱も相次いでおり、さらに士気を低下させる狙いと、白地にいる兼定を本陣に招くからとのこと。
まあ、ここまで来れば余裕である。
その頃、当の兼定は・・・
『寒いから外に出とうはなかったがのう。』
『兵は野営しているんだぞ?』
『麿は高貴な身ぞ?そういう訳にはいくまい・・・』
『それに、白地は殊の外寒い所だからな。むしろ勝瑞の方が暖かいぞ。』
『どうせ、川風が吹きさらしておるのじゃろう?どっちにしても寒いことには変わりないでおじゃる。』
まあ、いつもながら暢気なものである。
『して、諸将の扱いを考えねばならぬのう。』
『その前に淡路の海賊衆を味方に付け、島に渡る手段の確保をしないとな。』
『なあに、脅せば簡単じゃろう。言うことを聞かなければ鳴門の瀬戸へ大砲を撃ち込んでやれば、そこは船が自由に通行できるようになるからの。奴らの収入は半減じゃ。』
『味をしめたな。』
『海賊の平定は麿にお任せじゃ。』
そんなこんなで11月20日、兼定は中富の本陣に到着する。




