岩倉城の戦い
さて、貞光まで手中に収めた第二軍は、三好笑岩の居城、岩倉城(現:美馬市脇町)を次の標的と定め、10月18日進軍開始。
当日午後に岩倉に到着したが、この城に近隣の兵も含めて籠城しているだけでなく、城主三好笑岩も帰城しているとのこと。
若い徳太郎(康俊)なら与しやすかったが致し方ない。南側の少し広い所から砲撃を開始する。
岩倉城はさほど大きくもなければ険峻な山城でもない。ちょっとした丘陵の上にある城だ。
確かに城だけなら大した事はないが、守る将兵は畿内でも活躍した歴戦の強者揃いであり、砲撃だけでは簡単に落ちない。
それどころか、打って出て来て牽制を行うため、大砲を後方に下げざるを得なくなった。
そしてその後は、兵力優勢なのに膠着し、実質兵糧攻めの様相を呈してきた。
「まさか、こんな所で足止めを喰らうとは思わなかったな。」
「はい。さすがは策士と音に聞こえた笑岩でございますな。」
「まことその通りよ。しかも、兵の士気も衰える気配が無い。」
「申し上げます。ただ今讃岐から早馬があり、こちらに讃岐衆約五千が援軍として参るとのことでございます。」
「まことか!それは重畳。彼らにここを任せて我らは進軍することもできようぞ。」
「確かに、ここに笑岩を押しとどめておけば、逆に阿波は容易い戦になるやも知れませぬ。」
こうして、10月23日、香川之景を初めとする讃岐衆が山越えで駆けつけ、そのままほぼ無人の脇城を攻め取った。
そして、3日かけて包囲している軍勢を入替え、第二軍は吉野川を挟んで向かいにある穴吹城攻めに取りかかる。
こちらも城兵は少なく、瞬く間に落とすことが出来た。
ここで一旦兵を休ませ、三好方の動向を探るが、こちらに兵を向ける様子はないし、最寄りの最重要拠点である伊沢城も籠城の構えである。
そろそろ勝瑞城も近くなってきているので、いつ反撃があってもおかしくないが、もしかしたら讃岐か安芸勢の方に主力が向かったのかも知れない。
そこで、間者を増やし、各所の動向を探らせることとした。
そうしている間に、兼定が白地城に入り、三好地方の守りを固め始めた。
追って白地にも砲台が設置されるはずである。
第三軍は、那賀郡に侵攻するに当たって、敵の配置を慎重に探っていたが、新野、桑野、牛岐(いずれも阿南市)におおよその見積もりで五千ほどの兵がいることが判明した。
両軍を隔てる椿坂、由岐坂、日和佐から那賀川に出る街道全てが敵方に有利な地形であることから、当面は由岐に留まることにした。
敵軍五千を引きつけているなら、それで良しということである。
この部隊は鉄砲も少なく大筒も配備されていない。やむを得ない判断だろう。
敵軍の配置がおよそ判明した11月6日。第二軍の砲兵隊は岩倉に戻り砲撃を開始。
翌日に総攻撃を開始して一気に城を落とした。
三好笑岩・徳太郎親子は捕縛され、白地に送られた。
そして、讃岐・阿波兵も合わせて一万二千となった第二軍は、伊沢城に進軍し、11月9日、これを落城させた。
この城はいわゆる平城であり、大兵力を前に、まるで蟻の大群が城を覆い尽くすような勢いだったという。
伊沢攻略の後は、間髪入れずに川島城(現:吉野川市)に迫る。ついに麻植郡に手を掛けたわけである。
ここも吉野川河畔の要害にある、本来であれば守りの堅い城であるが、大砲の前に瞬く間に降伏し、翌日にはほど近い鴨島城も開城した。
その後、11月11日に吉野川北岸に渡った第二軍は、近隣の平城を次々に開城させながら七条城(現:上板町)に迫り、砲撃後に一気に攻め落とす。
城主孫次郎(兼仲)も投降し、謹慎を申し渡された。
これにより、第二軍も勝瑞城まで後三里ほどになった。
これを受けて、三好軍は那賀郡、勝浦郡から撤退、勝瑞城に帰還し始めた。
そしてこれを見た第三軍も11月16日に由岐坂を越えて北上を開始した。
こうして、阿波でも勝瑞城での最終決戦が近付く。
『ところで、若狭から三好笑岩が送られて来たのじゃが、どうすれば良いものかのう。』
『さすがに悩み所だな。三好にあまり恨みを買うと、京の本家が危ないという面もあるが、生かしておいてもコイツは後々災いの元になる。何と言っても策士だからな。』
『そちが悩むくらいなら、麿には判断つかぬぞ。』
『しかし、せっかく捕まえたのなら、切腹させた方がいいな。』
『その位、厄介なのか?』
『ああ、下手すれば織田との関係がこじれる。』
『うん。なら決定じゃ。切腹!』
コイツ、史実でもこの軽さだったんだろうなあ・・・
『残る敵将はどうするのでおじゃる。』
『七条、重清、一宮などは音に聞こえた剛の者だし、香西の当主も盲目だが、かなりできると聞く。取りあえず領地召し上げで助命し、配下に加えてはどうだ。』
『役に立つなら家臣にしてやってもよいぞ。』
兼定でも、勝てば上から目線が許される・・・




