勝賀城の戦い
永禄七年(1564)10月14日
さて、滝宮を落とした一条軍主力はこの日、讃岐国分寺に到着した。
ここから、讃岐中央に強い影響力を持つ香西氏の居城、勝賀城までは5kmほどしかない。
ただし、香西軍は打って出る構えで、約千五百の兵で衣懸(こかけ・現:高松市鬼無)に陣を構えたとのこと。
ここは左右に山が迫り、中央を本津川が、周辺にため池が点在する土地で、非常に攻めづらい場所である。
「これはまた、大筒と鉄砲の出番だな。」
「それでは、進軍させまする。」
とはいっても、距離は3kmほどである。
一条軍は、本津川を挟んだ佐古に進軍するが、敵は攻めかかって来ない。
十河が軍を立て直して出てきたら厄介なので、すぐさま鉄砲隊を出し、撃ち掛ける。
程なく大砲の準備も整い、敵のただ中に容赦無く撃ち込む。
敵を率いるのは、細川四天王の一人と名高い、香西駿河守(元載)であるが、圧倒的な戦力差を前に、有効な攻め手を見い出せていないようである。
ついに、右翼の兵が後退を始め、すぐに全軍が退却を始めた。
ここで為松若狭は追撃を指示、先鋒は黒川民部少輔・宗太郎親子だ。
この民部、今は伊予剣山城主であるが、実は長宗我部国親の弟で、不仲な兄と決別して伊予で再起を図った男である。
敵兵は迷わず海の方向に撤退しているので、この方面に突き進み、多くの兵が東に去るのは追わず、西の勝賀城の大手方面に軍を進めた。
「このまま門を突き破る。者共、かかれ!」
そのまま黒川隊は門前に進み、激戦を展開。
その頃、本隊は城の東にある搦手に鉄砲を撃ち掛けており、程なく門を突破した。
こうなると、寡兵の守備側は如何ともし難く、その日のうちに降伏した。
「今日、蹴散らした兵は、香西軍の旗本たちで、他の国人の兵は少ないであろう。」
「ええ、本来なら香西の兵も麾下に加えられれば良かったが。」
「確かに、それは残念だが、その代わり香西の領地を安堵する謂われは無くなった。この損害で香西の領地が手に入ったなら上出来よ。御所様もさぞお喜びになろう。」
「そうでございますな。では、このまま東に進みましょう。」
「そうだな。できれば志度、そうでなくとも屋島辺りまでは抑えてから、東讃の敵と向き合いたいものだな。」
そして、近隣の城主に降伏を促しながら兵を休ませる。
ここからの作戦としては、軍を三隊に分け、東中予の兵約一万は南東に進み、三木や長尾方面に、宇都宮・西園寺勢八千が海沿いに志度へ、そして讃岐衆五千は、塩江方面に進み、相栗峠から阿波に入ることとした。
こうして10月20日に各軍が行動を開始したが、本隊はすぐに室山城(高松市室新町)攻略に取りかかる。
要は山の麓から大砲を打ち上げるのである。こんな戦い方は日本の合戦史上、例が無いだろうが、敵が打って出て来ないと分かっている場合は非常に有効だ。
敵も従来型の籠城戦を企てていただろうが、これは全てを覆す力がある。
さすがに標高の高い本丸には届いていないが、途中の櫓などは使い物にならない。
その間に別働隊が、北に連なる荷稲山と東の石清尾山伝いに攻め上がると、夕刻には落城し、総大将、香西駿河を捕らえた。
こうして、本隊は長尾方面に進軍を開始し、そのついでに大野、鹿角などの諸城主を降伏させながら、翌日には十河城から北に約3kmの由良山上に陣を構えた。
宇都宮勢は、この前日に屋島を超え、牟礼の六萬寺に入り、陣を構えるとともに、付近の田井城を降伏させた。
さらに、北にある庵治に兵千を送って城を脅し取った後、23日に志度城に向かうこととなったが、ここで東讃守護代、安富筑前守(盛定)率いる二千が牟礼の原という所に陣を張ったということで、引き続き六萬寺で対峙することとした。
この原という場所は山が海に迫り、大軍の展開に不適なことから、宇都宮勢は兵を二手に分けることとし、兵三千は南から峰堂峠越で志度方面に向かわせた。
その上で本隊四千は前進を開始、25日に原で戦闘が始まる。
戦闘は最初こそ激戦であったが、別働隊が後ろに回り込む前に敵に察知され、敵が素早く撤退を始めたことで作戦は不発に終わる。
しかしこれで敵は退却し、志度城はほぼ抵抗できすに開城した。
こうして、宇都宮勢は志度城に拠点を置くとともに、讃岐東部の最大勢力である安富氏も居城である雨滝城に追い詰めることが出来た。
讃岐制圧は、これから大詰めを迎える。




