朝倉城の戦い
兼定たちは、吉良城を囲んだが、城内からは投降者が相次ぎ、最初から戦になりそうな気配が無かった。時期的に兵糧の蓄えは十分にあるはずだが、もしかしたら急な戦だったため、ここから仁淀川の陣に持ち出したのかも知れない。
また、周辺の森山、芳原、長浜(現在の高知市西南部)といった各城主もあっさり降伏してきた。
吉良城の籠城兵も、こちらの数の多さに僅か3日で降伏した。
「さて、このまま朝倉まで攻め込みたいが、宮内少輔はいかがしておるかのう。」
「はい、既に兵を挙げ、秦泉寺城に集結している模様です。」
「ふむ。では、旨みのある所はこちらで確保できそうよの。宗珊、本山からの使いが来ても和議には応じるな。朝倉から退去するなら追撃はせぬと伝えると良い。」
「無理には攻めぬと。」
「本山の城くらいは長宗我部にやっても良い。」
「御意。」
ここから、土居宗珊率いる4千の兵は、荒倉の峠を越え、朝倉城に迫る。こう書くと大変な道のりのように聞こえるが、峠は標高50mほど、朝倉まで5kmほどである。
本山方の兵はすでに各地に分散している。長宗我部軍の脅威にさらされている現在の高知市周辺の各城主はすでに自分の領地を守るために散っている。
朝倉城にはいても精々500程度であろう。
すでに本山方の旗色が悪い事は明白であるし、一条と長宗我部に挟撃されていることと、一条が土佐では別格の兵力を持つことくらい、各領主は知っている。
お家大事な彼らがここで一所懸命になるとは考えにくい状況である。
そこで、到着して間髪おかず宗珊に総攻撃を命じる。同時に福井、万々、神田、潮江の各城主らにも恭順を促した。
元々、朝倉の城も標高100m程度の小山に築かれた城である。この兵力ではひとたまりも無い。まず攻め手は南及び西から攻め、瞬く間に二の曲輪を占拠した。ここで退去勧告を行うと、本山茂辰はこれに応じ、本山方面に退却していった。
そう、兼定が率いなければ、一条軍はそこそこやれるのである。
こうして朝倉城を落とした一条軍はさらに東に兵を向ける。
ここから兵を二手に分け、一隊は石立、神田方面、つまり高知市の中心を流れる鏡川の南岸沿いに進め、本隊は鏡川を渡り、現在の高知市中心部に進軍する。これは偏に、長宗我部にあまり美味しいところを確保されたくないことと、この近辺の城主の降伏を促すためである。
いや、生き残りも大変である・・・
今回の戦の結果、現在の高知市でいうと鏡川以南及び北西部は手に入った。
これから中村に凱旋しても良いのだが、どうせならまだ勢力下に入っていない吾川郡や土佐郡の山間部を手に入れても良い。
この辺りは仁淀川や吉野川の最上流部であり、とにかく広い割に人が少ない地方であるが、それでもいくつか城があり、伊予に抜ける間道もある。
少なくとも将来の大敵である長宗我部にくれてやる義理はないし、高岡郡で大きな力を持つ片岡氏の周辺を全て当家の勢力圏で取り囲んでしまえば、彼らも当家に靡くだろう。
そうなれば長宗我部がそろそろ滅ぼすであろう、山田氏の領地を吸収するのと同程度の勢力拡大に繋がる。
こうして、この年内には池川(現:仁淀川町池川)や長沢(現:いの町本川)などの各城主を恭順させ、土佐の三分の二を手中に収めることに成功する。