白地城の戦い
さて、為松若狭守を大将とする第二軍は、伊予の川之江から金生川沿いに東進、境目峠を越えて阿波に侵攻した。
そのまま馬路川沿いを下って白地に出たが、ここで大西覚養からの手荒い歓迎を受ける。
どうやら寝返りは偽りで、徹底抗戦の模様だ。
しかし、白地城は大歩危・小歩危の難所を擁する土佐側、吉野川を挟んで比高のある阿波側に比べると、伊予側からは攻め手がある。
一条軍は白地城の裏手にある天神山に登り、尾根伝いに力押しする一方で、城の真北から大砲を撃ち掛けた。
10月3日に始まった攻城戦は、僅か3日で大西氏の降伏で終わった。
捕まえた大西一族を引っ立てて下流の大西城を開城させ、ここに陣を張った。
ここからは吉野川沿いに東に向けて進軍するのだが、地形的には少しづつ開けてきて大軍を運用しやすくなるだろう。
しかし、六千程度の兵力では心許ないため、南から進軍してくる第三軍との連携が重要になってくる。
「若狭様、これから一気に下りますか。」
「遠州殿、まずはこちらに付く予定の佐々木殿の居城まで行くことにしよう。それに備後の軍の位置を把握しつつ、御所様にお伺いを立てる必要がある。」
「確かにそのとおりですな。しかし、御所様がお作りになった大筒とやらは、とんでもないものでござったな。」
「あの山城がさしたる障りにならんかったからな。覚養も手も足も出なかった。」
「初めからこちらに寝返っておれば、領地も安堵されたろうに。」
「取り潰しは免れんな。それと、できれば御所様には、白地まで御出座いただいた方が良いと思う。」
「確かに、朝倉では、いささか遠いですな。」
こうして、第二軍は佐々木右京進の領地、昼間(現:東みよし町)まで吉野川沿いに進軍し、再度陣を張りつつ、大西家臣団の動員を進めた。
そして10月10日、陣より下流の重清、芝生、中鳥、貞光辺りから出てきた約千の敵と野戦が始まった。
一見、無謀な戦のように思えるが、元々狭隘な河畔の土地である。
通常なら十分に戦になるのだろう。
「敵の大将は誰だ。」
「恐らく、重清城主、重清豊後守と思われます。」
「そうか、阿波屈指の猛将がいたな。それでもこちらには七千近い兵がおる。陣形を乱さず押せば、やがて敵も下がるだろう。」
戦の最初こそ、互角に見えた戦いは、数刻の後、疲れの見えた敵軍が押され始め、昼間より広い美濃田まで押すと一気に崩れだした。
その勢いに乗って、吉野川支流の高瀬谷川を渡り、重清城の手前で陣を立てた。
翌日には、重清城の外郭を成している西ノ城を落とし、重清城に鉄砲を撃ちかけた。
この城は東側こそちょっとした崖になってはいるが、西ノ城とは目と鼻の先で、似たような高度なので、鉄砲は十分に届くのである。
更に白地から運んできた大筒を撃ち込むと、14日に開城降伏した。
さらに、貞光城も降伏させ、阿波の中心、勝瑞城まであと半分というところまで迫った。
そして、安芸・長宗我部勢で構成する第三軍であるが、吉野、海部、加島、牟岐まで各城主が戦わずに寝返ったため、それぞれの兵を糾合しながら10月8日、日和佐に至った。
ここの城主も為す術無く降り、10日には更に先の由岐城下に至った。
こちらの、阿波南部の要衝、桑野城まで、あと15kmほどの所まで来ており、兵力も一万を数えるようになってきている。
「しかし、張り合いが無いことよ。」
「備後守様、油断は禁物ですぞ。」
「しかしのう。我らはここまで歩いてきただけで、何の功も立てておらぬ。」
「しかし、首尾良く各城主を寝返らせたのは確かでございます。」
「それは弥三郎、そなたの功であって、儂の功ではない。」
「ご心配されずとも、これから敵がいくらでも出てまいります。」
「そうだな、いくら何でも無抵抗で国をくれるということはあるまい。」
「その通りにございます。」
「御所様、為松若狭様より書状が参っております。」
「して、何と書いておじゃるのか?」
「はい、ここまで破竹の勢いで敵を平らげておりますれば、是非白地まで御出座いただきたいとのことでございます。」
「そうですな。讃岐も安芸殿たちも、大変遠くに行ってしまいましたゆえ、こちらももっと近くに出る必要がありましょうな。」
実際、長宗我部氏の四国統一時も、秀吉の四国征伐時も、白地城を拠点に戦っていたことを考えると、妥当な進言だ。
「では、麿も参ると各大将に伝えよ。」
こうして兼定は10月17日に朝倉を発ち、10月28日に白地入りする。




