土器川の戦い
永禄七年(1564)10月10日
讃岐はこの時代、11の郡を有している。
面積は狭いものの、土佐が七郡しかないことを考えると、この地がいかに豊かなのかが分かる。
西部の多度、三野、苅田の三郡を香川氏、隣接する那珂・鵜足郡は奈良氏や羽床氏が勢力を持ち、阿野や香川郡(現:高松市付近)は香西氏、東部の山田、三木、寒川、大内の四郡に十河、植田、安富、寒川の諸家がひしめく。
安並和泉守率いる一条軍主力は、9月25日に伊予と讃岐の国境にある箕浦を皮切りに侵攻を開始し、当日中に大野原(現:観音寺市)に到着した。
翌日には東に進んで山本に陣を敷き、かねてからの約定のとおり、財田氏と大平氏を寝返らせると、周囲を完全に取り囲まれた山本氏は戦わずして降伏した。
そして、周辺の領主に降伏勧告しつつ兵を休ませ、10月1日に東進を開始。
3日午後には天霧城に到着した和泉守は、香川之景と会談し、一条に降ることが了承された。
当方に付いた香川氏は、即日全軍の招集命令を発し、10月8日には、約四千の兵が集まった。
主力と合わせて二万を優に超える一条軍は、奈良氏の居城である聖通寺城(現:綾歌郡宇多津町)に向け進軍するが、ここで伝令が入り、十河存保を大将とする約一万がこちらに向かっているとのこと。
一条軍は仕方無く聖通寺攻めを断念し、この日、土器川西岸で迎え撃つ事とした。
両軍は川を挟んで対峙するが、数はこちらが圧倒しており、向こうから攻めてくる気配は無い。
一条軍は前列に鉄砲隊、次列に弓を並べ、その後ろから槍と馬を出せるようにしているが、敵は馬が最前に陣取る。
どうやら敵はここで乱戦に持ち込みたいらしい。
しかし、こちらは本陣手前、足軽に隠される形で四門の大砲を据え、すでに準備を終えている。
改良型の大砲は、川向こうでも十分に射程に入っている。
しばらく睨み合いが続いたが、午の刻あたりに敵が河原に出てきた。
思いの外騎馬が多い。さすが土佐とは違う。
そしてさほど広くない土器川を一気に渡り始めた時、大筒の斉射が始まり、次いで敵が渡河中に鉄砲隊の斉射が始まった。
敵の後方でいくつか土煙が上がる。
更に斉射は続き、本来騎馬に続くべき足軽は出遅れているようだ。
そして矢雨が降り注ぐ中、敵の騎馬兵が川を渡りきった刹那、鉄砲が至近から斉射される。
ここで、後ろに控えていた足軽が一斉に前に出てくる。
いかに騎馬といえど、鉄砲と川で勢いを殺されては突進の威力を発揮できない。
しかも続いてくる足軽の数は少なく、瞬く間に押し返され始める。
こうなると後は数が多い方が圧倒的有利になる。
正午頃には、敵の退却が始まるが、後方は砲撃によりまだ混乱がつづいている。
和泉守はそのまま前進を下知し、全軍が一気に土器川を渡る。
「我こそは、香西越後守様が臣、片山志摩なるぞ、伊予の弱兵で死にたい奴は、出てきて我と勝負せよ!」
「我は石川伊代守が家臣、石川源太夫である。その勝負承った!」
両者馬に跨がったまま、一騎打ちが始まる。
最初は馬上槍で、そして埒があかないと分かるや、馬を降り刀を振りかざして揉み合う。
既に周りは一条方の足軽に取り囲まれており、片山は生きては帰れぬであろうが、それでも奮戦する。
数分の戦闘の後、腕を斬られた片山を源太夫が組み伏せて、見事敵将を討ち取った。
さすがは新居一の猛将である。
「敵将、討ち取ったり!このまま押して一気に殲滅じゃ!」
結局、二時間ほどで敵はこの近辺からいなくなり、そのまま1kmほど東の聖通寺城を取り囲むと、夕刻には城主、奈良太郎兵衛は開城した。
さらに、翌11日には、奈良、財田、山本、大平の各国人衆に、南の羽床城攻略を命じ、本隊は滝宮城(現:綾川町)攻略に向かった。
羽床城は最後まで抵抗し、損害度外視の力押しで落としたが、滝宮は戦わずして降伏した。
さらに近隣の各城主に降伏勧告を行い、長尾、田村、高木、新名の諸氏が当方に降った。
間者からその後に入ったの情報では、十河軍は兵を立て直し、香西氏救援を行う模様とのことで、もう一戦は交えることになりそうだ。
こうして、讃岐の西半分を瞬く間に制圧した一条軍は、いよいよ讃岐の中央部、香川郡の攻略に入る。




