来島の戦い
永禄五年(1562)9月13日
この日までに、来島水軍の船溜まりのある波止浜の対岸に位置する糸山と、来島城の対岸にある大浦の二箇所に砲台を設置し、多数の兵で守備を固めた。
どちらも300m程度しか離れていない。
城の堀と考えると長大だが、島と考えるとあまりに近い。
もちろん砲台は高台に作ってある。
いくら射程が短いといっても、船溜まりや上陸地点、さらには海峡に対しては十分である。
しかもそこには多くの鉄砲隊も配置している。
そして、水上戦は徹底的に避ける。
村上水軍と言えば、焙烙と呼ばれる手榴弾というか火炎瓶が厄介だが、所詮は手投げである。
接近戦さえ避ければどうということはない。
この日、敵は早朝にもかかわらず、海上に多くの軍船を浮かべている。
しかし、こちらの水軍がいないし、上陸するには寡兵だしで、対峙している形だ。
まあ、潮の流れの速い海域なので、留まるだけで漕ぎ手は大変だろうが・・・
ちなみに、こちらは射程に入るまで鉄砲も弓も待機している。
そして、先手を打ったのは糸山側の砲台で、敵船団に向けて砲撃を開始した。
同時に鉄砲隊が海岸線に整列し、転回するため海岸に近付いた船に発砲を開始する。
続いて、大浦側からも砲撃が始まる。
こちらは一門のみであるが、射程を確認するため、城に向けて撃つ。
何度か試したが、どうやら高台にある本丸には僅かに及ばないようだ。
こうして何度か砲撃した後、敵わないと見たか、船団は北に向けて撤退を始める。
そして糸山から狼煙が上がると、程なく遠見山からも同じく狼煙が上がる。
高縄半島の反対側の湾に集結していた一条水軍の出番である。
水軍衆は、大浦で足軽らを乗せて来島に渡る準備を行う。
その間に糸山の砲台は、来島氏の居館目がけて砲撃を開始する。
その後に上陸部隊が船溜まりから次々に上陸を開始する。
既に城兵がほとんどいないことは対岸からの観察で分かっており、島はあっさり占領された。
ここで一旦、敵の船団が逃げた先を突き止めるため、偵察を出し、同時に大浦の大砲を来島城の本丸に移設した。
もし敵が逃げ込むなら大島の下田水か吉海の港だ。
これを避けて上陸する術が無いかを探る必要があるし、当然、能島も兵を動かしていることだろう。
そして、同日夜、夜陰に紛れて敵が来島城に総攻撃を掛けてきた。
しかし、陸戦で城を守る一条側が有利である。
しかも上陸地点は糸山砲台の目の前である。
例え夜間であっても戦場は暗闇では無い。敵の方が焙烙で火を付けてくれるのだ。
彼らは逃げるための船を失い、その多くが討ち取られるか降伏した。
朝になって、来島だけでなく、能島の兵もいたことが判明した。これは明らかに敵の失策である。
鉄砲や大砲の性能を知らないのだから仕方の無い面もあるが、彼らが勝つには徹底して水上戦を挑むべきだったのだ。
そして、敵を撃破した一条軍は、既に敵船がいないと判明している下田水から上陸を開始する。
いくら大島まで5km程度とは言え、船での輸送は大変であったが、何とか二千の兵を二日で上陸させ、吉海を占領して、大島北部の宮窪を目指す。
ここで敵わないと見たか、来島、能島連名で降伏を願い出てきた。
能島氏の館を占領し、本陣を置くと共に、能島城と対岸の伯方島も接収し、差し当たっての作戦は終了した。
まだ大三島や生口島など、いくつかの伊予の島は毛利方のままだが、これ以上、相手を刺激したくないし、距離が遠くなれば守るのも困難になる。
糸山の砲台を能島に移動させ、守りを固めるとともに、来島城主、村上通康と能島城主、村上武吉を湯築に護送した。
これで終わったと思った9月16日、因島水軍と覚しき船団が能島に現れたので、銃砲撃を加えて追い払った。
敵も能島城と大島双方に近寄ることも出来ないと判断したか、すぐに立ち去り、一連の戦は終わりを告げることとなる。
結局、海の上での戦果は分からずじまいであるが、陸戦においては敵を二百ほど討ち取り、こちらは負傷者を含めて百名ほどの損害が出た。
上陸戦を二度も敢行したのだから上出来と言えよう。




