論功行賞
さて、中村に戻った兼定は、戦後処理の総決算である論功行賞案の作成に取りかかる。
予土二カ国の太守となったものの、その領地や統治方法は不明瞭かつ不揃いであり、問題山積みなのである。
まず、黒瀬城を西園寺に返還し、宇都宮領となっていた鳥坂峠周辺の領有も認めた。
その代地として、宇都宮には中山と郡中を与え、松前を小島政章に与えた。
松山は一条家の蔵入地とし、野間、風早、越智(今治市周辺)の三郡も基本的に各城主を安堵した上で一条領に編入した。
ただし、各国人衆からの上納は、土居、為松、安並、源の家老衆に入れることとした。
片岡には上浮穴(久万高原町)を、砥部を津野の支配領域として認め、安芸氏には川之江、金子には新居浜、長宗我部には西条、黒川には小松までの支配を認めた。
飛び地になったのは、皆が伝来の土地から動きたがらないからである。
そして、河野氏の処遇であるが、平岡周辺(現松山市浄瑠璃町)のみとし、平岡城の支城は全て破却させることにした。その代わり、伊予守護の名跡は残した。
この措置により、河野氏は最早、国人領主程度の規模となり、もう当家に歯向かうことなどできないだろう。
また、今回の戦でこちら側に付かなかった河野氏の分家(北条、土居、戒能)は領地没収の上、平岡に移された。
これは石川や黒川といった同じ分家でも、当方に付いた家と明暗を分ける結果となった。
さらに、松山に本拠を置く河野水軍も接収され、差し当たっては法華津氏に統率させることとした。
『皆、これで納得するかのう。』
『これだけ大盤振る舞いすれば納得だろう。実際、ほとんど損害が出ていないのだから。』
『そうよの。津野も長宗我部もほとんど歩いただけじゃもののう。』
『歩いた距離は大したものだがな。』
『まあ、遍路に比べれば・・・』
『そうだな。それと、そろそろ家臣団を編制し、上下関係をはっきりさせる必要がある。』
『それはどういうことかの?』
『此度の河野の軍勢を見て、気が付いたことはないか?』
『弱かったのう。』
『そうだ。本来なら兵力は五分。そう簡単に勝てる相手ではない。にもかかわらず非常に脆かった。』
『だから、あれほど簡単に勝てたのじゃな。それは麿にも分かるぞよ。』
『だが、あれは、下り坂に差し掛かった時の当家の姿でもある。』
『そんなことになるかのう?』
『なるさ。例えば、毛利や三好が全軍で攻めて来たら、皆が雪崩を打って敵に寝返り、戦の前に勝負がついてしまうぞ。残念ながら、今の一条にはその程度の力しかない。』
『そんなことは無いぞよ。麿がこれほど神懸かっておるのに。』
『河野だって古来から続く名族で伊予の守護だぞ。それでもああなる。』
『そうか。油断してはならぬと言うことじゃな。』
『それだけでは足りん。寝返らない仕組みを作らないといけない。』
『そんなことができるのか?』
『できる。だが、そのためには宗珊を始め、家老衆の結束が重要だ。』
『何とかなるのか?』
『ああ。家老衆にとっては悪い話では無いからな。』
『どうするのじゃ?』
『話は長くなるから書にしたためて宗珊に諮れ。宗珊が賛同したら羽生、為松、安並は間違いなく同調する。』
『分かったぞよ。それで、それは麿に何か良いことがあるのでおじゃるか?』
『そこからなのか?そっから説明が必要なのか?』
『だって・・・そなたには今まで散々な目に遭って来たのじゃぞ?』
『戦場を馬で走っただけじゃないか。』
『二度も死にかけたのじゃぞ!事もなげに言うでないわ!』
『あれは少将が武人らしくちゃんと馬に乗れていれば、何の問題も無かったことだ。』
『乗れんのじゃからそんな仮定は成り立たんであろう。』
『開き直るな!父は立派に総大将を務めていたではないか。』
『敵前を横切るなんて無茶はしてないぞよ。』
『弱かったんだから、勝つためにはやむを得んだろう。』
『もう、あんなことは嫌じゃ。』
『心配するな。今回の策は少将の身の安全のためにはどうしても必要なことだ。』
『それなら良いが・・・』
知力7の割に、随分口答えできるようになったなあ。
まあ、最後は納得してくれたようだが・・・
ちなみに、論功行賞案は家臣に歓迎を持って受け入れられた。
今回、出兵した各軍は11月までには領地に帰還した。
また、毛利とも手切れはできたようで、懸念された伊予侵攻も、その気配は無い。
彼らも海を越えての戦などしたくないだろうし、こちらが毛利領に関心を寄せてないのは兵を退いたことで明らかである。
毛利元就の必殺技、扇動や暗殺が炸裂しなければ、それほど恐れることは無いだろう。
そのためにも、家臣団の結束強化策は喫緊の課題だ。




