一気呵成
永禄2年(1559)9月15日
この日、伊予の国境や宇都宮領境に集結していた総勢2万4千が河野領に雪崩れ込んだ。
まず、安並和泉守を総大将とする本隊が犬寄峠の手前、中山に到達し、海岸沿いを進む宇都宮勢も上灘(ともに現:伊予市)に進軍した。
津野の軍勢も柳谷方面(現:久万高原町)に進出し、長宗我部勢も新宮(現:四国中央市)に至った。
これに対して河野軍は出遅れ、約三千の兵が伊予郡の郡中に進軍中との報が入った。
翌日には宇都宮勢が銭尾峠を越え、松山平野の南端、三秋口に陣を構え、17日には本隊も伊予郡の大平に陣を構えた。
津野勢は17日に久万に至り、大野勢と合流。これから三坂峠を下り、下浮穴方面に軍を進める。
長宗我部勢は17日に川之江に至ると、仏殿城主、妻鳥助兵衛門は事前の謀のとおり、こちらに寝返った。
また、近隣の松尾城などを恭順させ、新居浜方面に進軍を開始した。
18日に本隊が北上を始めると、河野軍は対峙を諦め、一気に伊予川(現在の重信川)北岸まで撤退した。
このため、宇都宮勢は対岸の松前に陣を張り、本隊はその東の上流部から渡河を開始した。
これを受けて、河野軍はまたも陣を放棄し、本隊めがけて突進してきた。
ここで乱戦模様となるが、後ろから宇都宮勢が牽制したことで河野軍は総崩れとなり、湯築城方面に落ち延びていった。
翌19日には津野勢が砥部に到着。
瞬く間にこの地を手に入れた我が軍は、すぐに東に向け進軍を開始。
平岡城(現:松山市浄瑠璃町)を取り囲んだ。
味方優勢の報を受けた兼定は、近習を率いて大洲を発ち、郡中城に入った。
「申し上げます。長宗我部・安芸勢、新居浜に至り、かねてからの約定のとおり、石川、金子、黒川がこちら方として兵を挙げましてございます。」
「決まりじゃな。」
「はい。これにより、宇摩、新居、周敷、桑村の四郡の領主もこれに従う模様。」
「誰も刃向かわなかったのじゃの。」
「はい。まるで無人の野を行くが如く、とのことでございます。」
「では、どこも本領安堵せざるを得んのう。」
「左様にございまする。」
「まあ良い。麿に従わなかった野間、風早、越智の三郡で大鉈を振るえば良いでおじゃろう。」
20日には平岡城も落ち、松山近辺で一条に抵抗を示しているのは河野氏の本拠、湯築城のみとなった。
今治近辺の兵も一度は主家救援のために兵を挙げたが、あまりの兵力差に怖じ気づいたか、松山平野へ出て来ない。
ここで、宇都宮勢を松山平野の北端、宅並城(松山市)に進め、長宗我部勢に笠松山城(今治市朝倉)を囲むよう指示した。
その上で本隊が湯築城を包囲し、津野勢で背後を固めると、程なくして河野側から和睦の使者が到着した。
「やっと負けを認める気になったかの。」
「はい。何卒御館様とその一党の助命を嘆願したく、まかり越したものにございます。」
「毛利と手切れするなら認めるぞよ。ただし、湯築の城は明け渡してもらうがのう。」
「致し方ございません。」
「至急、毛利に使いを出し、四国に手出し無用と伝えよ。」
「しかし、毛利様が飲むとは思いませんが。」
「飲まなければ一戦交えるだけじゃが、大友と尼子を相手にしながら、そのような事ができるかのう。それと差し当たり、左京殿(通宣)と弾正殿(通直)は平岡の城に入ってもらおうかの。直ちに退去するのじゃぞ。」
「畏まりました・・・」
こうして、21日に湯築城が一条軍に明け渡され、和睦が成立。
宇都宮、津野の軍勢が今治まで進出したことで、伊予はあっさり平定された。
『いや、もう少し戦が続くと思ったが、僅か一週間で決着が着いてしもうた。』
『勢いの差だな。』
『もしかして、このまま京まで攻め上がったりしての。』
『それは無理だ。今はまだ、大友や毛利の方がはるかに強い。』
『そ、そうであるの。しかし、麿もなかなかではないかのう。』
『尼子とはいい勝負かも知れんぞ。』
『なら、そこそこ強いのじゃのう。』
『少将の性格が羨ましいぞ。』
『そうであろう。若く才に溢れ、見目麗しい麿は皆が羨んでおる。』
『戦の度にいろいろ漏らしている身で何を言う。』
『それはお主が無茶させるからじゃ。あんなこと、普通ならできんぞよ。』
『まあ、それはそうだがな。』
差し当たり、湯築城代に小島政章を配置の上、戦後処理を安並和泉守に託して中村に帰還した。
ちなみに、本山も降伏し、長宗我部が長岡郡を平らげた。
ここで、嫡男元親も初陣を果たしたようだ。




