また、強敵を迎える
天正3年(1575年)11月8日
一度諏訪に戻った一条軍は和田峠を越え、依田川沿いに北上を続け、丸子を経由してこの日、上田に入った。
補給を考えると、もっと南の岩村田(佐久市)を目指した方が安全だが、この寒いのに山間部の峠をいくつも越えるのは南国の兵にはキツすぎる。
ということでこの経路を取ったが、その代わり、橋頭堡無しで難敵、真田氏と一戦を交えることになる。
ここまで奇襲を警戒していたが、それどころか全く敵兵を見ない。
不気味さを感じながら斥候、小部隊と徐々に人数を増やして千曲川を渡らせるとともに、後方の警戒も行いながら、ゆっくりと進軍する。
およそ圧倒的優位に立つ軍勢の行動では無いが・・・
『のうのう、寒いから早く終わらせるでおじゃる・・・』
『動くと暖かくなるぞ。』
『汗をかくと後でもっと寒くなるぞよ。』
『まあ、汗をかくことを知らない公卿も多いだろうからな。それよりはマシだな。』
『いくら何でも、そのくらいは皆、知っておるぞよ。』
『まあ焦るな。とにかく真田は知恵者だ。絶対に油断はできん。』
『どこがそんなに凄いのじゃ。』
『究極の小領主といった所だな。とにかく勝つためには何でもやってくる。普通の武士の戦い方をしていると負けるぞ。』
『じゃあじゃあ、官兵衛に伝えるぞよ。』
『それがいいな。』
すぐに本陣を設営し、主だった将を呼ぶ。
「分かりました。では、慎重に進軍することといたしまする。」
「この先の町も家の中、屋根の上、物陰に兵を伏せているかも知れんし、罠など当たり前、焙烙や昼夜関係無い乱破の襲来も考えられる。絶対に大人数で動くのじゃ。そして敵の挑発には乗らぬように。」
「それは何でも有りですな。」
「そうじゃ。上田や真田の町を全て灰にしてでも勝ちを拾いに来ると心得よ。」
「御意。」
その後、一条軍は北に進軍を再開し、安全地帯を増やしていく。
陣も常に中心に置いて小まめに移動する。
それを繰り返すうちに、小規模な戦闘があちこちで起きるが、見えている敵なら対処できる。
何しろ十倍以上の兵がいるはずなのだ。
この時代の真田の本拠地は、現在の上田城より北東に約一里ほど離れた真田に城を構えている。
途中には川も山が迫る所もあるが、寡兵でどうにかなるのは、上田と真田の境界にある虚空蔵山と麓を横切るように流れる神川の辺りくらいである。
この手前、漆戸という地点から大砲の斉射を始め、撃っては前進を繰り返し、一日掛けて虚空蔵山と対岸の矢沢城を落とした。
ここで敵わぬと見たか、真田源太左衛門(信綱)、兵部丞(昌綱)連名の使者が来たが、あの真田である。
信じられないので構わず前進を繰り返し、ついに11月14日、支城である天白城を落とし、城下の四日市に陣を敷いた。
そして、真田城に大砲を撃ち掛けること二日、ついに真田三兄弟が揃って陣を訪れ、恭順の意を示したのでこれを許し、何とか事なきを得た。
その頃、深志城(松本市)を落として一気に北上していた丹羽隊が、善光寺に到達したという報を聞いて、この地方の統治も任せた。
兼定たちはこれから諏訪に取って返し、甲斐方面に進軍するのだ。
まあ、甲斐も相当寒いが静岡まで近い。少しでも暖かい東海道を帰りたかったのだ。
『何とか信濃制圧に目処が立ったのう。』
『そうだな。信州先方衆の筆頭を降伏させたのだから、もう組織的な反抗はして来ないだろう。』
『そうよの。ここからの逆転は考えられんもののう。』
『ああ。こうなっては、信濃衆のうち、誰が織田方で誰が武田方か分からないからな。徒党を組めなければ、余程忠義に篤い者でないと歯向かっては来れんだろう。』
『木曽は武田と血縁で無かったかのう。』
『無理だろ。織田と勢力圏が接している。』
『麿ほど義理堅い者はおらぬか・・・』
『どの口がそんな大層な事を言うんだろうな。』
『麿は誰かを裏切ったことなどないぞよ。』
『毛利に聞かせてやりたいものだ。』
『もうすっかり忘れておったぞよ。しかし、別に裏切っては無いような、そうでもないような・・・』
『中納言がいろいろ7で良かったと思うよ。』
『知力だけぞよ・・・』
一条軍は、この時期最もマシと思われる岩村田から笠取峠(立科町)と、行きも通過した和田峠を経由するルートで11月22日、諏訪に戻った。




