羽場の戦い
天正3年(1575年)10月24日
10月21日に高遠攻めを行っていた部隊が中田切に戻り、再度進軍を開始した一条軍は、翌日には敵が陣を張る羽場(上伊那郡辰野町)に到着した。
ここは天竜川上流域に当たり、東西両側から山裾が迫る狭い土地の真ん中を天竜川が蛇行している地点である。
よくもまあ、こんな嫌らしい所に陣を張るもんだと思う。
西側の緩傾斜地に敵は陣を張っており、兵力はおよそ二千と見た。
ここを突破すれば天竜川を渡ること無く先に進めるだろう、という所に敵が鎮座している。
東側は低湿地のようで、敵前での渡河も要する。
そして案内人によると、戦場の北は狭い山道で、それを抜ければ諏訪湖なのだそうである。
「あれは東側に兵を伏せておりますな。」
とは官兵衛の言である。
「それに、背後の山道にも兵は伏せているでしょう。いくら何でも目の前の敵が全軍ではありますまい。」
「確かに少ないのう。それで、どうするのが良いと重う?」
ここで変に知ったかぶりしないのが、兼定の良いところでもある。
どこまでも他力本願なのである。
「我々はこの広い所で一夜を明かし、明日の早朝から狭隘部に進出。一斉に砲撃を行うのが良いでしょう、東側は鉄砲隊を多く配置し、横からの攻撃に備えましょう。」
「なら、渡河はせぬのでおじゃるな。」
「左様でございます。今夜は夜襲に気を付けて、明日が本番でございます。」
「では、良きに計らうのじゃ。」
「御意!」
こうして、この日朝から全軍の移動が開始される。
敵は相当自信があるのか、夜襲に打って出て来なかった。
何せ二万七千がこの狭い土地にひしめいているのである。
とても全軍を有効に展開できる広さの無い土地である。
敵はこちらが必ず渡河すると踏んで、敢えて待ち構えているのだろうが、そうは行かない。
こちらは、手間暇掛かっても確実に敵を排除する戦法を取るのだ。
一条軍は槍と鉄砲を主体とする歩兵で一気に正面の北の沢川を渡り、橋頭堡を確保し、大砲を設置する。
まだ鉄砲や弓の射程には届かないため、まだ敵軍に動きはない。
それを利用して準備を整え、巳の刻を合図に攻撃開始。
大砲など見たこともない兵達である。たちまち陣形は崩れる。
同時に東から鬨の声があがり、敵の歩兵が渡河を始めたが、こちらは鉄砲で難なく対処できる。
その後、敵の騎馬がやみくもに突撃を開始してきたが、それでどうにかなるものではない。
敵は波状攻撃を諦め、撤退を始める。
そして一条軍は西岸の逃げ遅れた敵のみを掃討しつつ、昼前には辰野を過ぎて山間部に突入する。
敵も山中に伏せてはいたのだろうが、味方が雪崩を打って退却してくると攻撃もできず、お陰でこちらは夕方には湖畔に至り、そのままの勢いで花岡、岡谷の二城を占拠した。
翌25日には兵を二手に分け、湖畔を一周する。
九州勢を中心とする一万が下諏訪方面を進んで諏訪大社の下社などを占領し、残る一万七千は高島、有賀、上原の諸城を攻撃し、これを落とした。
そして、岡谷から僅か一里しか離れていない塩尻峠も確保した。
ここから南東に下ると甲斐は目の前なのだが、信長の指示はここから北上し、佐久平、小諸、上田方面に進むことになっている。
そこで、本隊の指示を仰ぐと共に、木曽方面の戦況を確認した。
木曽方面は鳥井峠を固く守る武田軍に苦戦しており、狭い峠を突破できないでいる。
このため、一条軍は諏訪から塩尻峠を越え、武田軍の後ろに出ることにした。
11月1日に塩尻峠を超えた一条軍は翌2日、高坂弾正率いる兵二千と遭遇戦となったが、これを蹴散らし、鍋島率いる兵三千を中山道沿いの鳥井峠方面に急派すると、武田軍は抵抗を止めて投降してきた。
こうして、11月10日には丹羽長秀率いる三万が塩尻に入り、一条軍は佐久方面へと進軍を開始する。
『しかし信濃は広いのう。どこまで行っても信濃じゃ。』
『長野、松本、佐久、伊那、木曽の五つの地域があるからな。この国だけで四国の半分以上ある。』
『それは広いはずぞよ。』
『山は多いし海は無い。さらに、伊那の人たちはザザ虫を食べるぞ。』
『虫でおじゃるか?聞いたこと無いのう。』
『ウスバカゲロウの幼虫だ。多分・・・』
『麿は絶対無理ぞよ。麿はイナゴが限界じゃの。』
『意外にやるじゃないか。』
『麿は食には貪欲ぞよ。』
『そう言えば、好き嫌いなど、聞いた事無かったな。』
『うむ。あんまり考えたことないのう。美味しければ良いのじゃ。』
『中納言といると、戦であることを忘れてしまうな。』
『油断してはならんぞ。麿のように常日頃から緊張感を持たねばの。』
まさか、コイツにそんなこと言われる日が来るとは・・・




