中田切の戦い
天正3年(1575年)10月16日
飯田を占領し、市田(高森町)から更に北上を続けた一条軍であったが、宿場町である宮田(上伊那郡宮田村)の手前、中田切川の北(駒ヶ根市)に、武田軍およそ千が待ち構えているとのこと。
飯田で捕まえた案内人によると、高遠の城主、保科甚四郎の手勢ではないかとのこと。
「敵将は槍弾正、保科筑前守とのことですな。腕が鳴るでごわす。」
「いやいや又七郎よ、彼の者はもういい歳ぞよ。さすがに前には出てこんでおじゃろう。」
「それは残念。まあ、老いぼれの首など取っても詮無きことか。」
「それで官兵衛、このまま進むべきかのう。」
「そうでございますな。ここで戦支度を整え、三列の縦列陣で半里手前の飯島まで進むと良いでしょう。」
「そうじゃの。では、そこに本陣を敷くぞよ。本陣周りは土居殿と河野殿で固め、中央に土佐兵、右翼に日向勢、左翼に阿波勢、後詰めに鍋島隊で布陣するぞよ。」
一条軍は五里ほど北進し、この日午前に陣を鶴翼に展開したまま中田切川河畔に進出した。
対する保科勢は、対岸の段丘上に布陣しており、いかにこちらが兵力で圧倒していたとしても、容易に攻め込むことはできない。
少数で進軍を阻むには全く合理的な兵の配置だ。
しかし、こちらには大砲と大量の鉄砲がある。
これを敵陣に撃ち込みながら、中軍の讃岐兵たちが正面の中田切川ではなく、東を流れる天竜川を渡河して吉瀬という所に上陸して敵の背後を衝く動きをみせると、保科方は諦めて撤退を始める。
これを合図に全軍が中田切川の渡河を敢行し、段丘を駆け上がると既に敵軍は退却した後だった。
その勢いで宮田から伊那部(伊那市)まで一気に進軍してここに陣を敷き、土佐兵五千を高遠城攻略に向かわせた。
「槍弾正は高遠に逃げたかの。それとも羽場で待ち構えておるのかの。」
「分かりませぬが、あの様子なら敵の戦意もそれほどでは無いかと。」
「しかし、戦上手なのは武田に仰山おるからのう。油断は禁物じゃ。」
「そうでございますな。」
「ところで、羽場までは問題無く進んで良いでおじゃるか?」
「高遠が落ちるまで、ここで待っていてもよろしいかと。」
「そうよの。無理に進むほどでも無いの。」
こうして一条軍も伊那谷の奥地に侵入していく。
丹羽隊は上松を占領後、木曽氏の本拠である福島城を攻めたが、麓を埋め尽くす軍勢に抵抗を諦めて降伏開城した。
これから高坂弾正率いるおよそ五千と鳥井峠で決戦を控えている。
織田本隊は、10月12日に島田で武田軍と激突し、両軍合わせて死者が千を超える激戦となった。
戦いそのものは痛み分けであるが、兵力の少ない武田にとっては、戦線の維持も困難な損害であり、田中城(藤枝市)に撤退した。本隊は追撃を掛けること無く、周辺の諏訪原や高天神城を攻め、これを落とした。
また、徳川軍も二俣や犬居を落とし、織田本隊に合流すべく進軍している。
『どうやら、どこも何とか勝っておるようじゃの。』
『一つどこかで躓くと、逃げ場の無い一条にとっては窮地だけどな。』
『そうよのう。木曽川沿いに下ったり、広い平野部を逃げられる他の隊とは違うのう。』
『そうだ。だから敵に追撃されないような兵の退き方をしないといけない。』
『そなたが以前言っておった、島津の捨てがまりという奴かのう。』
『まあ、あれはあんまり極端だがな。それに、武田は機動力こそあるが、この方面の兵は少ない。敵の騎馬を封じれば逃げ切れんこともない。』
『麿の小っちゃい馬では絶対逃げ切れんからのう。』
『いい加減大きいのに乗れよ。一応いない訳じゃ無いんだから。』
『まず、あんなに背が高くては乗れん。』
『言うと思ったよ。』
『早いし怖い。』
『もう乗れる要素無しだな。』
『負けなければ良いぞ。』
『馬に乗る方が簡単だぞ。』
『そんなに武田は強いのでおじゃるか。』
『ああ、島津並に強いぞ。』
『大変じゃのう・・・』
『他人事みたいに言うな。中納言が今戦っている相手だぞ。』
『竹田なら怖くないのじゃがのう。』
『全国の竹田さんに謝って来い。』
この日、高遠城は落ち、保科親子を捕らえることができた。




