そして、やっぱりこうなる・・・
天正3年(1575年)8月
さて、やっと普通の生活が戻って来ると喜んでいたら、信長から武田攻めの協力要請が来た。
こんなことなら、半次郎と遊ばずに内政をしっかりやっておけば良かったとしばし後悔するが、どうせ近々あると分かっていたことなのだ。
兼定はともかく、栄太郎の元気は更に無くなるが仕方無い。すぐに動員を掛ける。
基本的には四国兵で編制するが、前回、功が無かったのに領地を与えた鍋島と島津は招集する。
とにかく五月蠅いのだ。他の家臣が・・・
今回は阿波、讃岐、土佐からの二万と、九州勢七千を播磨で合流させて進軍する計画だ。
8月9日に招集を開始し、9月1日に播磨垂水で合流。
そのまま進軍し、岐阜に9月13日に到着した。
「左近殿、いつも済まんな。」
「まあ、関東まではお付き合いするぞよ。」
「もっと北には来てくれんのか?」
「麿の兵は寒さが苦手での。」
「それはそうだな。甲斐や信濃はもう肌寒いとは思うが、よろしく頼むぞ。」
「それは任せるでおじゃる。それで、麿はどこを進めば良いのじゃ?」
今回は兵二十万を動員し、一気に武田を屠る算段を立てている。
まず、柴田勝家、前田利家、佐々成政率いる若狭、越前、加賀兵三万は上杉の牽制役として、金沢に陣を張る。
次に、丹羽長秀、宇喜多直家、毛利輝元の軍四万が木曽路から信濃へ進軍する。
そして、織田信雄、滝川一益が率いる伊勢の兵一万は、徳川軍二万とともに遠江制圧を行い、その後は北条に備えるという。
信長、浅井長政、羽柴秀吉、明智光秀、池田恒興ら豪華メンバー七万は駿河から甲府を目指すということだ。
「そして、左近殿には三河設樂から信濃に入り、伊那谷を東進し、諏訪から上田方面を目指して欲しいのだ。」
「分かったぞよ。」
こちらも軍師官兵衛のほか、島津義弘、歳久、家久に鍋島直茂という、豪華なメンバーで来ている。
いや、いっそ兼定が邪魔である。
この後、信長はすぐに出立し、兼定ら他の兵も続く。
既に徳川軍は二俣城奪還に動いており、武田側も援軍として進出してくるだろう。
一条軍は9月15日に岐阜を発ち、矢作川を遡る経路で21日、信濃根羽に入る。
ここで売木、平谷を制圧して橋頭堡を確保するとともに、北に進軍して駒場城(長野県阿智村)を開城させた。
この後、斥候により敵の配置や道筋を確認させた後、26日に北にある水晶山を迂回する形で天竜川の河畔、川路(飯田市)に出た。
ここからは基本的に天竜川に沿って諏訪まで進軍するだけである。
丹羽率いる中国軍も木曽川を遡り、馬籠、妻籠、三殿、野尻と街道沿いを瞬く間に制圧し、裏寝覚という所に詰めていた木曾勢と合戦を行い、力押しで殲滅したようである。
信長率いる本隊も天竜川を渡ってからは東海道沿いに東進し、こちらも委細構わず力押しをしたようで、一気に掛川に攻め込む。
ここも稀に見る激戦になったが、織田軍はとにかく後先考えない力押しにより、僅か二日で落城させると、大井川沿いの金谷(島田市)に武田軍を迎え撃つべく陣を張る。
さて、対する武田軍であるが、主力の甲斐・駿河勢一万五千は大井川東岸に着陣し、信濃でも鳥居峠(塩尻市)と羽場(上伊那郡辰野町)に兵を集めて防戦の構えを取っているようだ。
『しかし、寒いのう。』
『松山とは一月は違うだろうからな。』
『良いのう、そちは。』
『そもそも神に対して愚問だな。』
『それはそうと、武田は全然反撃して来んのう。』
『いきなりこの数で多方面から攻められたしな。まだ戦闘になっていない甲斐や駿河の国人ならともかく、信濃衆は援軍が来ないことに戦意喪失してるかも知れんぞ。』
『そうよのう。木曽の救援など、まず無理じゃ。』
『おそらく、武田がどう頑張っても三万が関の山だ。』
『九州くんだりから来た一条と大差無いのう。』
『これが、内政を真面目にやった者の力だ。』
『麿ほど真摯で真面目な者もおるまいて。』
ドヤ顔やめろ・・・
『まあ、目前の敵を撃破したら、後は籠城兵を叩くだけだろう。』
『釣り野伏せ、見てみたかったぞよ。』
『あれはそう簡単には成功せんぞ。それに、相手を迎え撃つか、陣を張る時間を貰えるならともかく、遭遇戦や敵が委細構わず速攻を仕掛けて来たらどうにもならん。』
『そうか。敵は馬が一杯いたのじゃったのう。』
そんな会話をしながら9月30日、飯田城を占領した。




