兼定、やっぱり呼ばれる
天正2年(1574年)8月
あっさり勝負が決まると思っていた伊賀制圧であるが、予想以上というか、史実通りに伊賀衆の反発が強く、信長から協力要請が来てしまった。
要請を受けた兼定は、伊予、阿波の直轄兵一万を率いて出陣することにした。
『のうのう、もう戦しなくても良いと思ったのじゃがのう。』
『まあ、まだ北条を倒すくらいまでは呼ばれると思うぞ。』
『あまりに遠いぞよ。』
『しかし、薩摩攻めのために美濃や尾張辺りから来ていた兵もいたからな。弾正としては、四国兵が関東に出向くのと同じような感覚かも知れん。』
実際、秀吉が小田原を攻めた際は、四国勢も出兵しているし・・・
『しかし、伊賀の兵も強いのじゃろ?』
『ああ、大体貧しい地域の兵は強い。土佐しかり、薩摩しかり。』
『それに細作だらけなのじゃろう?そんなのに恨みを買って、命を狙われるのは嫌じゃぞ。』
『心配はいらん。近江辺りに陣を構え、伊賀は別の将に任せればいい。』
『それなら良いが。』
明らかに渋々である。
『何なら栄太郎を総大将にしてもいいじゃないか。』
『そうよの。その手があるの。』
急に乗り気になった。
ということで、栄太郎を総大将、金子元宅、江村親家を副将として派遣を決定した。
8月16日に動員を掛け、栄太郎は一足先に洲本に向かう。
そして、9月6日までに淡路に集結した一条軍は明石に上陸、9月10日に大和月ヶ瀬に本陣を敷き、名張川沿いに伊賀に侵入した。
本来、一条掟書に従うなら、江村はまだ副将にはなれないが、かといって、直臣に褒美として与える領地も無いので、今回はこのような形とした。
織田軍は、今年に入ってから林佐渡守(秀貞)を総大将に、安藤無用斎(守就)、森与三(可成)・勝蔵(長可)親子らを派遣し、近江御斎峠(甲賀市)と宇田川(奈良県宇陀市)、伊賀越え(津市)の三方向から兵およそ三万で攻め立てているが、まだ勝敗を決していないものであり、今回、一条軍と丹羽長秀を総大将とする中国地方の兵一万が追加されたものである。
伊賀は大変小さな国である。
一見すると、こんな狭い領域に五万もの兵を投入すると、却って身動きが取れなくなりそうである。
事実、織田軍は圧倒する兵力をもって、既に大半の城というか館を落としているものの、敵の多くは山中に潜み、いわゆるゲリラ戦を展開しており、これに振り回されているようだ。
また、純粋な武士なら城が落ちると抵抗を諦めてくれるのだが、彼らはそうではない。お陰で有力な伊賀衆の頭目はほとんど健在であり、兵の士気も高いままだという。
伊賀者と言えば、服部、藤林、百地が有名だが、他にも滝野、森田、植田、野村、町井、山田、富野、福地、増地、増田、加藤、直居、田矢、沢、米野、長持、諸木ほか、沢山の者が少数の者を率いて行動してしており、これを従来型の兵で捕捉するのは困難を極めているようだ。
そこで信長が採ったのが、更なる物量作戦である。つまり、城という点では無く、伊賀という面を制圧して、敵を圧してしまおうというのである。彼なら本当にそうしてしまいかねない。
既に数による力押しで百地や柏原、境目砦などを落としているが、そうした占領地を核として兵を配置し、まずは少ない平坦地を全て押さえてしまう構えのようだ。
彼らが他国に逃散するならそれも良し、という結構荒っぽい作戦である。
一条軍も、9月12日に入国し、未だ抵抗していた増地城を落とした後、一旦伊賀上野に入り、そこから岩根川を遡るように南西方向の制圧を開始した。
更に南の治田、予野川沿いを制圧していく。
いかに相手が武勇優れた細作衆と言えど、数で圧倒すれば正面からの戦いで遅れを取ることは無い。
こうして面を押さえている間に、織田軍が近隣の低山部を包囲殲滅していくのだ。
勿論、目の前の相手が戦闘員かどうかなんて分からないが、成人男性は全て敵と見做して攻撃しているようだ。
こうして、ひたすら南を進み26日には名張の赤目という所に至った。
目の前の稜線の向こうは大和である。
そして、残る急峻な山岳部に分け入るのは、森親子率いる織田軍五千である。
彼らは鉄砲を撃ち掛けながら険しい渓谷の北を占領し、さらに別働隊が国境まで押していく。
それが終わると今度は東の長瀬に進み、やはり伊勢との国境まで押す。
こうして敵の組織的な抵抗は収まっていき、上野と名張に織田軍の本営が築かれた。
これからそこに城が築かれるのだろう。
こうして、伊賀は無事、制圧された。
彼らのことだから、いつ再燃するかは分からないが、再び兵を起こしても、今以上の兵力を集めることなどできないだろう。それだけ伊賀の人口は減ったようだ。
栄太郎も伊賀に入り、近習たちが厳重に守る中、大将としての仕事をこなしたようで、10月21日まで掃討作戦の行方を見守った後に伊賀を離れ、京都にしばらく滞在して、年の暮れに帰って来た。