織田VS島津、なんだよねぇ
さて、薩摩に進軍を決めた一条軍であるが、問題が目の前にある。
薩摩に入ってから出水の平野部に抜けるまでの二里弱の道が海沿いの狭隘地であり、大軍の移動ができないのだ。
間の山中に鉄砲隊など伏せられても堪らないし、広い平野部にはすでに島津軍およそ五千が陣を張っており、この陣を突破できるような兵数を一度に繰り出せないのである。
しかも、島津主力が陣がいる場所は米ノ津川の南岸であり、兵を伏せる場所にも恵まれている。
つまり、見えている兵が約五千なのである。
官兵衛達にも諮ったが、敵が撤退しない以上、この方面で勝ちを拾うのは無理、とのことなので、宇喜多、宇都宮、別所、西園寺、土居の五将に兵六万を与え、人吉に進出させた。
ここを治める相良氏に兵力を見せつけつつ、別ルートでの薩摩侵入を図るのである。
ここから一条本隊は、眼前の島津軍を引きつけるための陽動作戦を採ることとなる。
11月8日に水俣を出発した宇喜多勢は10日に人吉に到着後、更に兵を二手に分けて進軍した。
まず、宇都宮遠州率いる兵三万は人吉の西南、久七峠を越えて大口(現伊佐市)に至った後、川内を目指した。
そして、宇喜多本隊三万は、人吉の南にある堀切峠を越えて同じく大口に至り、川内川沿いの宮之城(さつま市)を目指した。
これは、六万の大軍を可能な限り早く目的地に到着させるために侵入経路を分けたものであり、出水に陣取る島津軍の退路を断っている間に鹿児島を織田軍に攻めてもらう策である。
しかし、大隅に入った織田本隊も進軍に苦労していた。
この地方の難所というか、必ず激戦地になるのが大隅の加治木(姶良市)である。
ここに瀧口坂という狭隘地があり、坂を下りるとすぐに白木山川が流れる非常に大軍が展開しづらい難所があり、ここにも島津軍およそ三千がいて、侵攻を阻んでいる。
そこで織田軍は、前方にある山の踏破可能な経路を調べるとともに、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興ら三万の軍を天降川沿いに北上、迂回させ、加治木を北から急襲させることとした。
さて 、一条本隊は攻め手を模索するために周囲の地形を把握した後、15日から山中を含めた広い範囲に兵を展開させ、敵の伏兵の有無を調べさせた。
山から海まで、広い所でも三町歩(約300m)狭いところなら二十間(約36m)ほどの道である。皆で広がって声を掛けながら確認すれば何と言うことは無い。
これを全て土佐兵にやらせた。
相手にとっては外国語同様である。
そして安全が確認できたら歩兵、鉄砲の混成部隊、次いで砲兵隊を送り込んだ。そう、砲撃で打開するのである。
こちらに攻め手が無いのだから、相手にだって無いのだ。それを逆手に取って、漸進する。
他方、13日に峠を越えた宇都宮隊は翌14日、大口で、島津歳久率いる二千を交戦するが、敵はすぐに大口城と曽木、馬越の三城に別れて籠城を始めたので、大砲を使った攻城戦に切り替えるとともに、後続の宇喜多勢を先に通した。
宇喜多隊は、11月16日に宮之城に到着すると、兵一万を別所長治に与えて川内に急行させ、別所隊は翌17日に川内に到着し、川内川と隈之城川の合流部付近に陣を張った。
織田軍は17日に加治木の北から総攻撃を開始し、これを確認した本隊も瀧口坂周辺の山を委細構わず登り始める。
島津義弘隊は善戦したものの、数で及ばないため鹿児島への撤退を決意した。
一条本隊も、17日には砲の設置を終え、砲撃して相手を蹴散らしては少し進むといった現代戦のようなことをしながらゆっくり前進し、やっと18日になって平野部に進出を果たした。
この時点で島津家久隊は野戦を断念し、撤退を始める。
しかし、敵の伏兵を警戒するあまり、追撃はならず、みすみす敵を逃してしまう。
他方、順調なのは毛利・大友勢であり、彼らは二手に分かれ大隅半島を南下し、次々に諸城を落としていった。
『しかし、今まで難所はたくさんあったが、これほど難儀したことは無かったの。』
『ああ、しかし、戦わずに無事ここまで来れたなら上出来だ。』
『後は宇喜多殿が何とかしてくれるぞよ。』
『そう願うな。迎撃戦だから上手くやってくれるだろう。敵を討つよりバラバラに敗走させるのが目的だからな。』
『落伍者が多く出れば良いという話じゃったな。』
『ああいう所はさすが官兵衛だ。勝敗はともかく、敵を鹿児島に閉じ込めてしまえば、いずれ勝てるのだからな。』
『と言うことは、麿たちはもう、ここまでで良いのでおじゃろう。』
『まあ、急ぐ必要は無いが、ここでのんびりしているのはあまりに心証が悪い。一応は鹿児島に向かっている姿勢は示すぞ。』
『ならば、安全最優先じゃ。』
『まあ、それでもいいよ・・・』
島津家久隊は、大方の予想通り、最短ルートである宮之城に至り、ここで宇喜多勢と交戦するが、有利な地を、しかも街道を塞ぐ形で布陣している宇喜多勢を突破することは出来ず、ここで多くの将兵が討ち取られることになる。
だが、一部の兵は山中や間道に逃げ込むことに成功し、鹿児島に向かったようだ。
そして、いよいよ九州攻略戦も大詰めを迎える。
しかし、よく働かされたと思う。