肥後、日向平定
肥前を平定した織田・一条その他連合軍は、兼定率いる九万が肥後へ、信長率いる九万が豊後佐伯から日向方面に進軍する。
一条軍には有馬や大村といった諸軍が加わり、信長には旧龍造寺軍が編入されている。
肥後は何ともまとまりに欠ける国である。
守護菊池氏の衰退と大友氏による実質的な菊池乗っ取りにより、大友の支配下に収まったかに見えたが、義鑑の弟菊池義武の反乱や有力国人の台頭などで、小規模領主分立状態が続いている。その中で有力な者は、旧菊池家臣の赤星や隈部を始め、阿蘇、天草、相良、名和、城といった諸氏が入り乱れている。
今回は、これを全てなぎ倒すことが、一条軍の任務となる。
10月15日に肥後に入った一条軍は軍を二手に分け、本隊は熊本方面に南下、宇喜多勢四万は東に進路を変え、隈部城(山鹿市)方面に進んだ。
本隊は近辺の小城を押しつぶし、あるいは開城させながら菊池川を渡り、18日には木葉城(玉東町)に入った。
最早、打って出てくる勢力はない。
ここで、鹿子木、城、千葉の諸侯が降伏の使者を立てて来たのでこれを受け入れ、翌日には隈本城に入った。これと同時に、宇都宮豊綱と有馬義貞に兵一万を預けて宇土に進出させるとともに、志岐、天草らにも降伏勧告を行った。
また、天草の諸侯が靡かない場合に備え、水軍衆を島原へ派遣することを下知した。
一方、宇喜多勢は、隈部、菊池の諸城を難なく落として10月22日に阿蘇郡に入ると、まず西の入口に当たる長野城を落とし、翌日には阿蘇氏の本拠である南郷城に攻めかかる。
阿蘇惟将は堪らず降伏し、直家は惟将の弟惟種とその子惟光を人質に取って西進し、益城郡を経由して隈本に入った。
ここで、天草郡の諸領主の降伏の知らせを受け、さらに阿蘇や隈部ら肥後国人衆を加え十万に膨れあがった一条軍は11月3日に再び南下を開始する。
肥後松橋(宇城市)で宇都宮勢と合流し、5日には球磨川を渡り、翌日には水俣に陣を張った。
本陣を相良から奪った城に置き、前方と後方の高台には砲台を設置し、島津軍の来襲に備えた。
ここで、相良氏に降伏の勧告を行うとともに、織田軍の日向制圧と大隅侵攻を待つ。
日向は肥後よりは山がちな土地である。まあ、それでも土佐よりは大分マシであるが・・・
そして、ここは島津氏が守護を務めてきた国ではあるが、今はその面影はほぼ無く、北部は大友の影響を強く受ける土持氏、中部以南は伊東氏、そして南部に僅かに北原氏がいて、これらが有力な国人と言える。
しかし、最も強いとされてきた伊東氏も、昨年木崎原で敗戦した影響で家中が混乱しており、九万の織田軍に対して、組織的な抵抗を示すことができそうな勢力はない。
10月25日に佐伯に集結した織田軍はただちに南下を開始、2日かけて延岡に入り、そのまま県城を開城させる。
そのまま土持氏を傘下に加えた織田軍は伊東氏に降伏勧告し、早くも10月31日には佐土原城(宮崎市)に入城した。さらに都之城に進出して北原氏も恭順させて大隅との国境の五十市(都城市)に陣を張った。
ここで、一条軍の位置を確認し、11月13日に双方とも総攻撃を開始することに決まった。
『しかし、弾正殿もえらく早い侵攻じゃったのう。』
『こちらに負ける訳にはいかないのだろう。』
『しかし、一旦豊後まで引き返しておったからのう。』
『大したもんだと思う。しかし、気を付けろよ。こちらが島津の主力を当たることになるからな。』
『しかし、いかに薩摩の兵が強いといっても、精々二万なのじゃろう?』
『十倍の兵力差を物ともしない連中だけどな。』
『土佐の兵も強いと思うぞよ。』
『相手には釣り野伏せ、という戦法があるからな。』
『何じゃ?それは。』
『正面の味方をワザと退却させて敵を引き込み、左右に伏せた隊と併せて包囲攻撃する戦法だ。』
『器用なものよのう。しかし、分かっているなら策に乗らなければいいぞよ。』
『実際の戦場では虚偽の判断は難しいし、分かっていても相手が退くと進む奴は必ずいるからな。』
『ならば、伏せられないほど、兵で埋め尽くして見せようぞ。』
『不案内な土地だけどな。』
『うむ。ここは弾正殿に任せるぞよ。』
『やっぱりな。そう言うと思ったよ。』
『大体、国境の辺りでお茶を濁しておればよいのではおじゃらぬか?』
『とんだ盟友だな。』
『弾正殿が勝てば良いのじゃ。別に麿が勝つ必要は無いでおじゃる。』
『まあ、中納言が前に出る必要はないから、ちょっとは頑張れよ。』
『なら、肥前と肥後の兵を先に行かせてよいか?』
『偵察ならいいんじゃないか。しかし、あれらが総崩れになって、こちらが身動き取れなくなるような陣形は取るなよ。』
『麿には難しい注文でおじゃるよ。』
まあ、ここは官兵衛と元親を頼るか・・・