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一条兼定なんて・・・(泣)  作者: レベル低下中
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矢継ぎ早

天正元年(1573年)8月


 織田家から丹波や紀伊への出陣要請がなくて安心していたら、九州平定の依頼が来た。

 まあ、いずれ来るとは思っていたが、来年か再来年だろうと思っていたから驚きだ。

 今回は、中国・四国勢と大友軍で片をつけるらしい。


 9月1日に豊後府内に参集と決められていたので、直ちに兵を動員し、領地全域から八万の軍勢を招集した。これに織田軍三万、大友軍三万、毛利軍一万で計十五万だ。


 総大将は織田信長で、副将が一条兼定。この落差はゲームを知る者にとっては驚愕のチョイスだが、この世界では泣く子も黙るラインナップなのだろう。


 まず叩くのは肥前の龍造寺である。次いで、肥後、日向の二方面から薩摩・大隅に向かい、途中の勢力も併呑する予定だ。


 兼定も別所長治、宇喜多直家、長宗我部元親、宇都宮豊綱、安芸国虎ほか、そこそこ豪華なメンバーを従えて8月24日に着陣する。


 今回は、栄太郎を置いてきた。徳姫の出産に間に合わないということもあるが、内政課題が溜まりに溜まっている。そちらをやってもらわないと困るのである。


「よくぞ参られたな。甥御殿が来てくれたからには、龍造寺など一ひねりよ。」

「お言葉痛み入るでおじゃりまする。もうすぐ都から弾正殿も来るでしょうからの。それで、兵の集まり具合はどうなのでおじゃりまするか?」

「毛利、丹羽殿の軍勢も揃っておるし、我が軍もすでに府内と立花山に集まっておるぞ。」

「では、このまま一気に攻め込むのでおじゃりまするな。」

「ああそうじゃ。織田様は降伏を許さぬ方針とのこと。いっそのこと根絶やしにしてくれると助かるのだがな。」

「まあ、それは無いと思いまする。毛利も結局、助けられたことでおじゃりますし。」

「まあ、二度と儂に歯向かってこなければそれで良いのじゃ。頼むぞ。」

「任せてたもれ。」


 今回の龍造寺攻めは、多方向からのローラー作戦が採られる。

 北の玄界灘沿いを毛利軍が唐津を目指して西進し、大友軍二万は以前から反抗的な高祖城(福岡県糸島市)の原田氏を倒した後、龍造寺方の都地城(福岡市)攻略を行う。

 織田軍は太宰府から南西に佐賀を目指し、一条軍は筑後の平定を優先する。


 これに対する龍造寺軍は、最大でも三万五千から四万までと見込んでおり、かなり強い軍兵ではあるものの、兵力は織田が圧倒している。


 兼定は9月2日に府内を発ち、早くも4日には日田から筑後に入った。

 筑後は大友と龍造寺の間で揺れている地域であり、味方もいるが敵もいるという場所で、大友が付けてくれた案内人頼みの進軍である。


 最初の日は、大友方の日田氏の領内で野営し、翌日、麻底良城(福岡県朝倉市)を攻撃した。

 ここは、元秋月家臣の城で、すでに秋月氏は滅んでいるが、案内人に攻めた方が良いと助言をうけたため、攻撃を始めたものだ。

 一家臣の城にしてはなかなか堅固で立派なものだったが、下段、中段の施設を砲撃した後に総攻撃を仕掛けると、すぐに降伏した。


 その後、日田氏や星野氏の軍勢も加え、さらに草野、赤司らを恭順させ、久留米に進出すると、筑後川対岸の西島(佐賀県みやき町)に龍造寺軍およそ一万五千がいるとのこと。

 そして、案内人によると、敵陣から敵の本拠である水之江城までは三里ほどしか離れていないということであった。

 このため兼定は、目の前の龍造寺軍殲滅を決め、9月11日、古賀(久留米市)に陣を敷いた。


 そこに、織田方から使者として、蜂屋頼隆が来たので、一条軍が砲撃を先に行う旨を知らせ、翌12日早朝から砲撃を開始した。

 ここで乱れた龍造寺軍の横合いに、北から織田軍が突撃すると敵は総崩れとなり、西に向けて撤退を始めるが、織田方の追撃は厳しく、千を超える首級が挙がったという。

 控え目に言って、再起不能なレベルの損害である。

 その二日後には肥後との国境である諏訪川近くに陣を張り、筑後から龍造寺の影響を排除できた。


 他方、織田軍は水之江城を包囲し、力押しで17日に落城させた。

 また、毛利軍は唐津を占領し、ここに陣を敷き、大友軍も高祖城攻略まであと一歩の所にきている。


 対する竜造寺隆信は、西に逃げて弟信周がいる小田城(佐賀県江北町)に入った。

 ここで、信長に対し、恭順の意を示したが、彼から示された降伏の条件が、領地全て没収と引き替えの助命であったため、やむなく抗戦を決意して、再度全軍に招集をかけた。

 もちろん、織田軍もこれを見逃さず、水之江城の接収もそこそこに西進を続け、9月20日に信周の館を総攻撃、これを奪い、龍造寺側の再起を阻む。


 隆信はいち早く脱出に成功し、戸坂峠を越えて伊万里に陣を構える。

 ここに来たのが、唐津を発っていた毛利軍で、龍造寺軍千五百と野戦となり、数に勝る毛利軍が圧勝した。ここで龍造寺隆信は抗戦を諦め、小早川隆景に投降し、龍造寺軍の抵抗は終わった。

 そして、残る松浦、大村、有馬といった肥前の有力国人に対しては、毛利軍が示威行為を行いつつ、恭順させ、10月13日には肥前の制圧を完了した。

 また、大友軍も高祖城を落城させ、他の反大友勢力も降伏させた。


 こうして九州北部も織田の支配領域となったのである。


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