戦の秋
永禄元年(1558)9月
稲の刈り取りも、主だった畑の収穫も終わり、領内はすっかり秋の装いである。
兵農分離の進んでいないこの時代、この季節からが戦のシーズンである。
長い間睨み合っていた本山と長宗我部も本格的に動き出すだろう。
そして、一条も兵の集結を始めた。
さすがに昨年支配下に収めた前線の兵までは招集できなかったが、代わりに片岡氏の手勢約五百が加わった。
これに久礼以西のほぼ全軍と、津野の軍勢を合わせて約7千もの兵が集まった。
また、鉄砲についても領内産、購入品を合わせて150丁が揃った。
9月17日に中村を発った本隊は、伊予境を越えて河後森城下(愛媛県松野町)に陣を敷いた。
また、一門の伊予常盤城主、観修寺氏の軍勢も津島城下(現:宇和島市)に向けて海沿いに進軍を開始している。
さらに片岡と津野の軍勢は、檮原から山越えで西園寺領内に侵入を開始している。
妻の実家である伊予大洲の宇都宮であるが、取りあえずは領境で待機させている。
これは、背後の伊予守護、河野氏の動向が分からないからである。
恐らくは、西園寺側は河野に停戦の仲介を頼むことになるのだろうが、こちらはそれを受諾するつもりは一切無い。
その結果、河野がどう動くかは未知数なのである。
「では皆の衆、大儀である。これから大まかな方針を伝えるぞよ。」
「はっ!」
「まず、我が軍にとって最も大きな障害となるのが、これから戦う三間の領主、土居伊豆守、志摩守親子である。特に伊豆は音に聞く老将である。心してかかるのじゃ。」
「敵に援軍さえ無ければ、問題無く勝てると思います。」
「そうであるの。土居を破ったら津島と法華津に使いを出し、兵を挙げるよう命を出すのじゃ。そうすれば板島殿もこちらに付かざるを得ぬ。」
「そうなれば、いよいよ西園寺は追い詰められますな。」
「後ろに宇都宮がおるからのう。もう黒瀬城近辺で守りを固めるほかない。」
「我が方の勝ち、でございまするな。」
こうして、河後森城主、渡辺氏の軍勢も加えた約3千5百の本隊は、三間と目と鼻の先の前線である近永城に入る。敵の最前線である高森城まで僅か2km程度の場所である。
ここに、遠方からの軍勢が次々着陣してくる。
おそらく、最終的には5千を越えるであろう。
これに勧修寺の兵約千と、山越えを敢行中の津野勢ら約千五百を併せれば、数の上では西園寺を圧倒することになる。
これから対決する西園寺軍であるが、正確には三間の西部、高森城や岡本城を領する河野通賢と大森城や迫目城を有する土居清宗という、いずれも西園寺15将と呼ばれる領主の連合軍である。
ちなみに、河野は伊予守護の遠い親戚である。
9月24日に近永の陣を発った一条軍は、広見川支流の三間川沿いを進軍し、三間川東岸の山城である高森城と進路上にある井関城という小城を素通りし、岡本城方面に兵を進めた。
これは高森城が険峻な山城であり、攻めづらいのと、両城とも大して兵を置いていないだろうと想定したためである。
念のため、高森山麓に渡辺勢5百を後詰めとして配置した。
すると、敵軍も打って出てきた。
折敷紋の旗が河野氏であることは分かるが、何故か三つ巴紋の旗も数多く見かける。
両軍は山に挟まれ、更に三間川が蛇行する比較的狭い場所で対峙することになった。
前方左、つまり西北が岡本城で、右後方が高森城である。
場所的には兵力に劣る西園寺方が地の利を得ていると言えよう。
「宗珊よ、土居の旗印は楓だったと思うが、あれは西園寺の旗か?」
「恐らく、西園寺の援軍が来ていることを偽装しているのでしょう。敵の数からして、援軍はいないか、いても少数でしょう。心配ご無用にございます。」
『少将、やるぞ。』
『何を申すか。麿は嫌じゃぞ。』
『この日のために馬の練習をしたではないか。』
『何で勝てる戦であんな危険な事をする必要があるのじゃ。たわけなのか?それとも麿に対する嫌がらせか?』
『向こうには地の利がある。確実に勝つには正攻法ではだめだ。特に敵将は経験豊富だ。』
『麿の馬乗りは経験不足じゃ・・・』
『つべこべ言うな。ここで勝ったら少将の家中での立場は盤石だ。』
『もう十分盤石であろう。何でこんな所で命を賭けねばならんのじゃ。大体、ここまで出陣しただけで十分でおじゃろう。』
「御所様、いかがなされましたか?」
「いや、何でもないぞよ・・・」
『見たか、宗珊のあの目。少将の活躍を期待しているではないか。』
『しかし、あれは怖いのじゃぞ。』
『大丈夫。神懸かっているのだから無事に帰って来れるに決まっている。我は武神、タケミカヅチであるぞ?』
『分かった、分かったぞよ・・・』
良かった。これで我が軍の戦闘力は土居宗珊基準になった。
兼定の統率と武勇では、勝てるものも勝てない。
こうして、戦の火蓋が切られる。




