毛利、降伏する
さて、織田軍は吉田郡山城近辺の高所を制圧し、砲台設置に必要な樹木の伐採や道の整備に取り組んでいた。
そんな最中の5月15日。城内で異変が起きた。
何と、籠城兵の一部が、安国寺恵瓊の策略によって寝返り、城内で戦闘が始まったのである。
それどころか、麓にある大手門まで打ち壊されてしまう。
これを見た織田軍は、城の南側からの全軍突撃を命じ、瞬く間に本丸から南西方向に伸びる尾根上の曲輪を二つ占拠してしまう。
事ここに至って毛利は全面降伏を選択し、織田方もこれを認めた。
名のある武将の多くも武装解除に応じ、18日に城は接収された。
兼定は前日に現地入りしていたものの、既にやることはなく、後詰めの任についただけであった。
これで、毛利領内での戦闘は、当主輝元の名で禁止されたが、ただ一つ、吉川元春が立て籠もる月山富田城だけがこれに応じず、5月27日、信長は同城の総攻撃を命じた。
そして6月7日に、兼定率いる砲兵隊が到着し、すでに元親によって築かれていた砲台に大筒が設置される。
この城は、付近で最も高い山頂部に本丸を置き、北東及び北西方向に伸びる緩傾斜の尾根上に多数の曲輪を配した構造であり、城の南は平らな土地の一切無い山中、西は急傾斜地、東から攻めると複数の曲輪から同時に攻撃を受ける形になるので、北から攻めざるを得ないという、かなり難儀な城である。
そこで、元親は、城の対岸、南と真東にある高台や城の北東側、かつて新宮党の屋敷があった辺り及び北西側、飯梨川を挟んだ広瀬という村落にも砲台を設置し、城の主要な曲輪を攻撃出来る態勢を整えていた。
こうなると、後は撃つべきものを撃つだけである。
そこで、6月9日朝より、北の砲台から城兵が最も多く配置されている城の下段部分を砲撃すると、門などがあっさり破壊される。
さらに、南と東からも本丸に向けて小一時間砲撃すると、本丸はほぼ丸裸同然となったことが確認できた。
このため、正午頃に全軍の突撃を命令すると、次々に曲輪を占拠された城は二時間持たずに落城した。この時既に、城主吉川元春は自刃した後であった。
こうして、毛利領は全て占領下に置かれることになった。
そして、信長と兼定の協議により、毛利には周防、長門の二カ国のみの領有が認められ、さらに織田家の与力大名となった。平たく言えば、柴田勝家と毛利輝元が同格になったのである。
そして、毛利家臣は、一門や血縁者及び、周防・長門に領地を持つ者に限られ、その他は全て織田家が預かることとなった。
残る備後、安芸、出雲、石見、隠岐は全て織田領となり、一条家は因島水軍の支配地域を接収した。
これをもって、毛利輝元や小早川隆景は助命され、信長に臣下の礼を取った後、山口に行くことを許された。
また、織田家の直轄地となった四カ国は、丹羽長秀が統括することとなった。
「しかし左近殿。本当にこんなものでいいのか?」
「麿はこれで良いぞよ。強いていうなら、一つ貸しじゃの。」
「一つどころでは無いような気がするがな。」
「神がそうしておけと言うからのう。」
「神は坊主と違って無欲なのだな。しかし、本願寺や上杉と戦った分も恩賞無しだからなあ。」
「では、貸し三と神が申しておる。」
「分かった分かった。そういうことにしておくが、後で利息など付けるなよ。」
「ダメなのでおじゃるか・・・」
「まあ、多少なら良いが、儂が応えられる範囲にしてくれよ。」
「任せるでおじゃるよ。」
こうして、全ての処理を終え、6月24日に吉田郡山を発った。
『しかし、これで毛利の脅威は無くなったの。』
『公方様には見事に逃げられたがな。』
『そうじゃのう。戦が始まる前にさっさと船で逃げたでおじゃる。』
『公卿でさえ戦っているのに、武家の棟梁が戦わずに逃げるのは、さすがにどうかと思うな。』
『あれでは死んだ将兵が浮かばれんぞよ。』
『全くだ。』
『しかし、どこに逃げおおせたのかのう?』
『西は我が軍の船がひしめいていたし、東じゃないか?』
『そうでおじゃるな。では、紀伊辺りかのう。』
『そうだな。それと、恵瓊はどうするつもりなんだ?』
『もう一条家臣でおじゃるからのう。どっかいい領地ないかのう。』
『まあ、最後に一応、働いてくれたらしいからな。』
『今回は助命したから、それで・・・』
『まあいいだろう。それで・・・』
こうして7月1日、海路松山に帰還する。