一斉攻撃
天正元年(1573年)5月1日
寡兵の軍勢にとって、最もされたくないのが、多方面からの一斉攻撃である。
こんなことされると、たとえ全体で見て勝利でも、局地的には酷い有様となる。
それが、敵の領地ではなく自分の領地だと、目も当てられない。
今回は、毛利にとってまさにそのような状況になっている。
各地方に陣を張った織田・一条連合軍はこの日、堰を切ったように毛利領に雪崩れ込んだ。
まず、織田軍は信長を総大将に六万の兵を率いて山陽方面にやってきた。
備中真部で兵を分け、本隊三万と備前・備中の軍勢一万五千が海沿いを進む。こちらの隊に道案内として、宇喜多直家と付けている。
そして別働隊は備中井原から山間部を侵攻する三万の軍勢で、丹羽長秀を大将、羽柴秀吉を副将としている。
第三軍は四国勢で、長宗我部元親率いる二万で山陰から攻め込み、一条軍の本隊は九州から下関に攻め込む1万五千。総勢で十一万の大軍であり、これに志賀親守率いる大友の援軍二千が遊撃となるほか、一条水軍四千が沿岸を荒らし回る。
これに対する毛利軍は、本隊が毛利輝元を大将に、約一万の兵で世羅方面に進軍し、山陽方面は小早川隆景率いる一万が赤坂(福山市)の芦田川河畔に進出した。
また、吉川元春が山陰兵一万を動員して出雲国境に陣取ることとなった。
今は農繁期であり、大軍を催せるのは織田と一条くらいのものである。
毛利だって、先の事を考えずにとにかく最大動員で臨んだとはいえ、よくこれだけ集められた、というレベルである。
そして、九州からあの壇ノ浦に上陸した一条軍本隊には本来、周防・長門の兵が当たるのだろうが、どうやら動員が終わる前に上陸できてしまったようだ。
5月3日、本庄(福山市)に到着した織田軍本隊は陣を敷き、対岸の毛利軍と対峙するが、寡兵の小早川隆景は打って出ずに長期戦の構えを見せる。これは圧倒的に不利な毛利にとっては妥当な策だろう。
鉄砲は多く保有していても、大砲を持っていない織田軍は、このまま膠着するか、損害度外視で力押しするほかない。
このため、付近に伏兵のいないことを確認した信長は、宇喜多直家に北上を命じた。これは、寡兵である毛利が最も嫌う策であり、同時に逆転を狙う絶好の機会でもある。
しかし、宇喜多勢は小早川に攻め込むこと無く、芦田川を遡り始めた。小早川隆景は眼前の織田軍を警戒し、動くことができない。そのまま宇喜多勢は追撃を受けること無く戦場を離脱した。
丹羽長秀率いる第二隊は、5月4日に小世羅に本陣を置いた。こちらも芦田川沿いの川が蛇行する所であり、対岸に毛利本隊が陣を敷いている。
ここに5月8日、昼夜兼行で北上していた宇喜多勢が北西の井折方向から突撃し、毛利軍本隊を後ろから急襲した。
これを見た織田軍は一気に渡河を開始し、瞬く間に耐えきれなくなった毛利勢は敗走する。輝元も僅かな供回りを連れて吉田郡山に逃げ帰るのが精一杯という惨敗であった。
そして、毛利本隊が敗れた知らせが入ると、小早川隆景は撤退を決意し、すぐに陣払いを行う。その後、激しい織田の追撃を何とか凌ぎながら、11日、吉田郡山城に兵二千とともに入る。
ここで抗戦を諦めた毛利方は、安国寺恵瓊を使者に立て、和睦を提案するが、信長はこれを拒否し、城の包囲を命じる。
同じ頃、山陰では、四国勢が砲撃、次いで銃撃主体の攻撃で突破口を開き、出雲に侵入した。第一陣を突破された吉川元春は、野戦を諦め、こちらも僅かな兵を率いて月山富田城に立て籠もる。
そして、一条兼定率いる一条軍本隊は、準備不足の毛利軍を蹴散らしながら東進し、小郡という所で敵千近くと小規模な合戦を行ったほかは、さしたる抵抗も受けずに5月4日、山口に入り、これを占領した。 そして、近隣の城を降伏させながら5月11日、岩国に着陣する。
この時すでに毛利方には組織的な抵抗が出来る兵力、拠点、指揮官はおらず、織田・一条連合軍にとって脅威となる戦力は展開されていなかった。
僅かに残る毛利方の城も、基本的に各城主が立て籠もっているだけで、こちらに打って出て来るだけの兵が残存していないことは明らかであった。
その間にも、こちらに降伏する城が相次ぎ、進軍や輸送にも支障を来さないほどであった。
他方、水軍衆による沿岸部焼き討ちも効果を上げており、特に三原は陸上と海上から攻撃を受け、町が壊滅する被害を受けた。
こうして、5月12日、吉田郡山城の包囲を完了させた織田軍約七万は、周辺の支城を落として毛利方の排除を進めつつ、北の甲山や東の垣原にある山上を確保した。
吉田郡山城は、現在の安芸高田市にあり、山頂を中心に四方に伸びる尾根それぞれに曲輪を設け、麓近くにも本格的な郭を持つ、かなり大規模な城である。
さすがは毛利の本拠地といったところであり、単純な防御施設の充実度や収容可能な兵力は、最新鋭の白地城をも凌ぐと考えていいだろう。
尼子軍が数万の兵で二度に亘って攻めながら落とすことが出来なかった日本屈指の山城である。
こんな城が正攻法の力攻めで落ちるとは少し考えづらい。かと言って、短気な信長が兵糧攻めを選択する訳が無い。
ということで、織田軍は、大砲を装備する一条兼定を待っている。