犀川の戦い
元亀3年(1572年)10月14日
手取川から退却した上杉軍は、犀川を渡り、北岸に陣を敷いた。
もう目の前に尾山御坊が見えるという場所だ。双方の戦力を見て、上杉側は野戦を選んだのだろう。
対する織田・一条軍は、途中で加賀衆を糾合しながら北上し、同じく犀川の南に到達した。先に到着した柴田勝家が本覚寺に本陣を構えて敵を牽制し、信長の本隊と兼定達はやや遅れてこの日の正午頃に到着した。
すでに一向宗の残党を含めて八万近い大軍勢である。
『しかし、えらくゆっくり進軍したのう。上杉軍を取り逃がしてしもうたし。』
『織田軍ならともかく、うちの騎馬兵では追いつかんからな。それに、手取川での反省は活かさないといけない。』
『何か気になることがあったのでおじゃるか?』
『奴らは夜陰に紛れて河口に進み、葦原に潜んで機会を待った。』
『さぞかし寒かったであろうな。』
『ああ、そして川霧が立ちこめる中、攻撃を開始した。奴らは鉄砲に対応してきたのだろうが、大砲も撃てず、苦戦した。だから今回は、昼間移動し、夕刻までには勝負を付ける。』
『そういうことじゃったのか。さすがは悪知恵の宝庫じゃのう。』
『官兵衛を連れて来ておれば良かったな。』
『何でじゃ。』
『奴のせいにできたのに。』
官兵衛は宇喜多の元で毛利に備えている。
『麿とそなたの仲よ。どう言いつくろっても無駄でおじゃる。』
軍の配置が終わる。敵は夜襲か朝駆けを狙っているのか、仕掛けて来ない。
それはこちらにとっては何より有り難い。しっかり返礼はさせてもらう。
「全砲門、放て!」
ドンッ、という轟音とともに、40門もの大砲が火を噴く。そして川向こうの敵陣に次々と着弾し、こちらにいても敵が大混乱に陥っているのが分かる。
だが、これで終わりでは無い。続いて第二、第三斉射を加えると、土煙で敵の様子が分からなくなる。
きっと、着弾の影響だけでは無く、三万近い人間が巻き起こしているものもあるのだろう。しかし、これでは砲撃を継続できないので、一旦中止した。
そして、こちらに向けて川を渡ってくる者はいないようだ。
そうしているうちに、当初の作戦とは違うが、織田軍が渡河を始めた。
どうやら、こちらの砲撃が終了したと判断したようだ。同時に加賀の軍勢も渡河をはじめる。
一条軍は混乱を避けるため、待機するよう下知し、その場に留まった。
また、備後守あたりが行きたかったと愚痴を零すのだろう。
こうして、犀川の戦いは、一条軍が本領を発揮し、圧勝した。
尾山御坊も即日開城し、信長はそちらに入城したようだ。
翌日、柴田勝家は上杉軍の追撃と偵察を兼ねて出撃し、一条軍は犀川を渡って尾山入りした。
「おう左近殿、今回も派手にぶっ放したな。」
「先日の借りを返せて良かったでおじゃる。それで、上杉軍はどうなってしもうたかのう。」
「まだ戦果は分からんが、敵の損害は千や二千では済まんかも知れんぞ。こちらが取った首の数だけで五百は下らん。大砲で死んだ者はそれを遙かに上回ると思う。」
「ならば、上杉は加賀から撤退するのう。」
「軍を維持できんだろう。兵糧もどっさり置いていってくれたからな。」
「謙信は・・・生きておろうの。」
「ああ。しかし、上杉が退くなら武田も退くな。危機は去った。」
「それなら良かったぞよ。」
「ああ、左近殿のお陰じゃ。」
10月19日、柴田隊の斥候により、上杉軍の本隊が越中に入った旨の知らせが来たことから、織田軍本隊と一条軍は都に帰還することを決め、現地は引き続き柴田勝家に任された。そして、10月27日に都に入った兼定は、今回の軍を解散した。
その後、東国の武田にも動きがあり、11月1日には、早くも遠江から撤退が始まったそうで、徳川・織田連合軍も敢えてこれを追撃することなく、危機は去った。
しかし、美濃岩村城はそうもいかなかったようで、織田・浅井連合軍が城を攻め立て、多大な損害を出しつつも奪還し、秋山信友は討たれたとのことである。
こうして、足利義昭の挙兵に端を発する一連の「信長包囲網」は事実上、瓦解することになる。