武田、動く
元亀3年(1572年)8月
不穏な気配は東国各所に起きていたが、ついに武田が動いた。
史実よりは若干早いような気がしないでもないが、冷涼な信濃、甲斐では、これ以上早い出兵は無理があるとも思う。
また、武田が将軍の意向に応えたのは、幕府に対する忠誠と言うよりは、急拡大した織田への危機感や延暦寺焼き討ちに対する憤りもあったように思える。
武田軍約四万は三手に分かれ、本隊が遠江方面へ、山形昌景率いる部隊が三河から遠江へ、秋山信友率いる部隊が三河から美濃方面に進軍した。
これに対して、矢面に立つことになった徳川軍は約二万。これに織田の援軍二万が加わった。史実より織田方の援軍が大分多いが、これが畿内をある程度落ち着かせることができた効果だろう。
しかし、満を持して出てきた武田軍は強く、遠州犬居城は戦わずして降伏し、二俣城の攻防も史実通り武田が制した。更に、美濃岩村城も武田方に降伏、開城したため、巷では武田が織田を破るとの声が高まり、それは松山にまで届いた。
そして、これに呼応する形で、足利義昭、三好義継、松永久秀が挙兵した。
何故、松永が将軍側に付いたのかは全く理解不能であるが、ゲームでも節操なく裏切っていたので、私には「ああそうか」くらいの感慨しかない。
だが、史実と異なるのはこれだけではない。浅井長政の援軍と、伊勢、美濃を中心とした織田方の援軍が合流し、さすがの武田も動きが慎重になった。
両者互いに決戦の機を窺っているようにも見えるが、遠征している側の武田は、いつまでも対峙している訳にはいかない。
対する織田軍についても、のんびりは構えていられない。長期戦が陣営内の裏切りを誘発するのは、間違いなく織田側だからである。
結果として、武田軍は信玄率いる本隊と山形昌景隊の計約三万五千が合流し、浜松城手前で陣取り、これに徳川・織田連合軍約四万が浜松城内外に布陣している。
また、美濃では武田軍五千が岩村城周辺を確保し、これに織田・浅井軍約二万が城攻めの構えを見せたまま睨み合っている。
他方、足利義昭率いる兵約一万五千が都に近い勝竜寺城(京都府長岡京市)に本陣を置いた。対する織田軍は、信長率いる二万に筒井順慶らの軍勢が加わり、これに対峙している。
兼定も動いた。
まず最初に大友宗麟に対して、毛利の意向を知らせた上で、こちら側に付くよう依頼し、了承を得た。大友は龍造寺相手にそれどころでは無いはずだが、取りあえずは毛利を牽制してくれるだけで有り難い。
まあ、単に「敵の敵は味方」程度のものだろうが・・・
次いで、播磨、讃岐、阿波で兵の動員を開始した。総勢約五万で、各部隊の大将は、副将として別所長治、長宗我部元親、安芸国虎を指名し、兼定も明石に向かった。ちなみに、中村にいる鬼組も呼んだので、遅れて合流する。
『のうのう、麿が参戦するのはこっちだったのでおじゃるか?』
『我も最初は毛利の方かなと思ったが、相手の動きが予想以上に早いし、織田方の兵力も想定以上に多い。だから、こちらの重要度が増したと判断した。』
『毛利は来るかのう。』
『いや、今回は出て来ないだろう。兵を集めたとしても、それは見せかけじゃないか?』
『そうよの。一条が全軍で畿内に入ったなら話は別じゃが。』
『そういうことだ。彼らだって公方様のために無謀な戦はしないだろう。』
『麿は頼まれてもいないのに、出陣しておるがのう。』
『織田には出陣を知らせた。どうせすぐ要請が来る。』
『要請があってからで良かったのではおじゃらぬか?』
『いつも言われてから動くようでは、信頼を得られんぞ。』
『分かったぞよ。行くぞよ・・・』
『中納言が戦嫌いなのは分かっているが、今しばらくは辛抱だ。』
皆、知っているだろうが、コイツの戦嫌いは決して平和主義に基づいてはいない。
そして、9月6日。全軍集結に先立ち、兼定は明石に到着する。
「もう着いてしもうた。僅か半年ぶりの明石城じゃ。」
「御所様、お早いご到着。さすがでございます。」
「小三郎(別所長治)も久しいの。賀相(別所吉親)と宗永(別所重棟)も一緒か。これはえらく物々しいのう。」
「はい。別所家一代の大戦なれば、皆、覚悟の上でございます。」
「よう申してくれた。麿は嬉しいぞよ。」
「ははっ、ありがたきお言葉にございます。」
「そろそろ阿波と讃岐からも先遣が来るのう。」
9月15日には、主力三万が揃い、残りは後詰めとして摂津の今津(尼崎市)に向かうこととした。やはり、摂津の国人衆はどうしても信用できないのだ。
そして、信長からも参戦要請があり、9月20日、山城勝竜寺城攻略に出発した。