因幡出兵
夏にも大きな動きがあり、畿内では、信長が延暦寺を攻撃した。
朝倉が滅亡し、浅井が裏切らなかった世界線なのに、三好二人衆や近江、摂津などの国人の一部が逃げ込んだようである。また、延暦寺の僧兵も度々都に下りてきて示威行為をしていたらしく、気が短いことで定評のある信長が躊躇無く攻めたようである。
これには、さすがの延暦寺も想定外だったのだろうが、よく考えて見れば、すでに本願寺を攻撃し、日本史上初のジェノサイドも行われている。やったのは誰あろう、一条兼定であるが・・・
つまり、仏教施設への攻撃のハードルが爆下がりしていたのである。しかも、一条家に仏罰など落ちていない。ここを延暦寺側は見誤ったか。
本願寺は初回なので、まだお目こぼしもあっただろうが、それを見ていたにもかかわらず信長に反抗した二度目の延暦寺は徹底的に攻められたようだ。
しかも「仏罰など無い、一条を見よ!」と兵を鼓舞しながら攻めたそうである。
とんだ風評被害だ。
また、畠山と対立していた松永久秀が三好義継と組んで、都を牽制する動きを見せた。
これら二つの出来事で、織田軍は畿内から動けない状況になったが、一条軍にとっては、織田軍の主力が畿内に留まってくれるのは有り難い。
一条軍は、土佐、備前、美作から二万を動員し、8月9日、因幡へ向けて出陣した。
今回の進軍は攻略ではない。因幡と伯耆の国人に力を見せつけ、二カ国を手に入れるためのものだ。
そして、毛利への牽制や反織田陣営の攻撃に備えて、前線に近い地域の兵は残した。
9月1日に讃岐に集結した兼定率いる土佐兵は海を渡り備前に到着、そこから各地の軍と合流しながら9月22日に志戸坂と右手峠の二箇所から因幡に入り、智頭に到着。
翌23日には鳥取城下に至り、鳥取城主、武田高信を始めとする因幡の主だった者と会談する。
「さすがに因幡まで来ると遠いのう。ほんに、一条の領地の広さを実感するぞよ。」
「これは権中納言様、我ら因幡衆一同、ご尊顔を拝すことが叶い、光栄の極みでございます。」
「うむ。麿も皆と会えてうれしいぞよ。今まで、因幡にちょっかいを掛けてくる輩は数あれど、こうして出向いて挨拶を交わしたのは、この一条権中納言が初めてでおじゃろう。」
「まさに、我ら、とても誇らしい気持ちで一杯でございます。」
「麿が来たからにはもう、山名や毛利の心配はせんで良いぞ。皆の領地も安堵する故、領地と民が豊かに、そして強くなるよう、専念いたせ。」
「はい。畏まりました。」
「ただしじゃ。戦はいかんぞ。今日この日をもって、因幡は一条領じゃ。一条の傘に入った以上、私闘は認めぬ。これまでの遺恨はあろうが、今の領地境を動かすことはまかりならんぞよ。」
「ははっ。」
「もし、異論があったり、理不尽な扱いを受けた場合は、麿に言うてこい。麿の名において、公明正大に裁きをくだしてやるぞよ。また、麿に歯向かう者あれば遠慮無く掛かってくるが良いぞ。この世からお家を消し去ってやるぞよ。」
「以後、肝に銘じまする。」
「良い。麿はそなたらの領地には口を出さぬ故、良き政をすれば良いのじゃ。下克上は終わり終わり!皆、笑うのじゃ。」
「ははっ、有り難きお言葉に存じまする。」
ほとんど、武田が喋っていたようだが、やはり、最大勢力を率いているのは彼なんだろう。
「それと久武、此度の仕事、麿は高く評価しておるぞ、追って主君より褒美の沙汰があるであろう。」
「はっ!有り難き幸せ。」
とっても怪しい御仁だが、元親の家臣で本当に良かった・・・
そして、鳥取城内で宴を催した後、9月26日に伯耆に向けて進軍を開始する。
『のうのう、因幡の兵を動員しなくて良かったのかのう。』
『下手に動かれたり背かれたりしては敵わん。』
『それもそうじゃの。して、伯耆はどこまで進軍するのじゃ?』
『出雲との国境に近い所で、尚且つ、毛利軍と不慮の衝突が起こったとしても有利な陣形が敷ける所までだな。』
『結構ギリギリまで攻めるのじゃな。』
『この軍は見せる軍だ。だから、大砲まで持ち込んでいるし、鬼八郎達が先頭を歩いているのだ。』
『戦う訳でも無いのにのう。そして、それが故に進軍が遅い。』
『こういうものはゆっくり見せつけながら行くものだ。』
『それはそうよのう。』
こうして3日かけて因幡国内を練り歩き、29日に倉吉に着陣し、黒田官兵衛と合流した。