また厄介事を押しつけられる
一条軍が英賀を壊滅させて数日後、そろそろ撤収も視野に入れる必要があると考え始めた頃、幕府から使者がきた。
「お初にお目に掛かります。それがし、細川与一郎(藤孝)と申す。お目通りが叶い、大変恐縮にございます。」
「こちらこそ、高名音に聞こえる細川殿にお越しいただき、嬉しゅう思いまするぞ。」
「いやはや、そうおっしゃっていただけるとは、何とも面映ゆいものでございますな。」
「何を申される。和歌、茶道、蹴鞠、いずれも当代一と評判でおじゃる。麿もいつか古今の伝授を賜りたいところじゃ。」
やっぱりそっちかい!
「これは、私にとっても大変な名誉。また、いずれかの機会に。」
「それで、ご用の向きは何でおじゃろうかの。」
「はい。先頃、石山本願寺が決起し、一条の御所様におかれましても英賀を攻め落としたこと、公方様も大変お喜びでございます。つきましては、何卒ご助力いただき、石山本願寺を攻めていただきたく、参上いたしたところでございます。」
『のうのう、やっぱり受けるしかないかのう・・・』
『公方様の意は弾正殿の意だ。断るわけには行かないだろう。』
『そうよのう。分かったぞよ。』
「承知仕った。大船に乗ったつもりで良いぞよ。」
こうして、一条軍三万は11月9日、垂水から摂津に入り、12日には前哨戦として、池田知正の居城、池田城を攻め、翌日には知正と荒木村重を捕らえた。そして、15日には淀川の河畔にある桜宮に陣を張った。
ここで、丹羽長秀率いる織田軍一万五千と合流し、織田方には本願寺の北と東を包囲するよう依頼した。
石山本願寺は、現在の大阪城のある場所にあり、寺とはいっても立派すぎる規模の城である。
まあ、この時代は寺も軍事施設として大いに使われていたので、何も不思議なことではないが、周辺は淀川を始め、寝屋川、平野川などが複雑に入り組む低湿地で、攻めづらいことこの上ない。
特に北や東から攻め込むのは困難なため、一旦、南東の今里まで軍を迂回させ、そこから一気に攻め込んで、南の高台、現在の上町台地に本陣を置いた。
近くには、有名な真田丸が置かれた場所もあり、家康もこちらから攻め込んだようだが、こちらから攻め込むより方法がないのである。
そして、寺の中だけではなく、周辺の寺内町にも万を超える門徒が立て籠もっている。
まずは、上町から大砲を撃って、進路を確保していく。
敵は雜賀衆や根来衆を始め、結構な数の鉄砲隊がいて、迂闊に近寄れない。
このため、火力と射程に勝る大砲で敵を蹴散らすとともに、遮蔽物である寺内町の建物を破壊し、安全を確保しながら進軍するほか無いのである。
11月21日から始まった砲撃により、陣から寺までの間は一条軍が確保できた。
途中、火災により陣を後退させるなどのハプニングはあったものの、敵はこちらに近寄ることもできず、野戦を諦めた模様。
敵も鉄砲隊が自慢なのだろうが、一条軍の鉄砲隊は数も練度においても彼ら以上である。
その後、11月28日に再び砲撃を再開し、翌日にはついに寺の中心を射程に収めた。
11月30日に今度は寺に向けて砲撃すると、程なくして本願寺側から降伏の申し出があった。
このため、顕如を始めとする上層や雜賀、根来の頭目など二百人以上を捕縛して、丹羽長秀に押しつけた。
本願寺にはさっさとご退場願いたいが、これ以上恨みも買いたくないのだ。
『しかし、あの堅固な要塞でも二日しかもたないのじゃのう。』
『まさに、大砲の面目躍如といったところだな。』
『あれがあれば平城など、ひとたまりも無いのう。』
『それも、この圧倒的な兵力あってこそのものだ。敵が籠城戦を選んだ時点で、もう勝ち目は無いのだからな。』
『しかし、お主の予言では散々苦戦したのじゃろう。』
『ああ、十年籠城された。まあ、村上水軍が兵糧を入れ続けたからこそだが。』
『そう言えば、そちらも無くなっておったのう。』
『あったとしても、この結果は揺らがんよ。』
『そうじゃのう。しかし破壊し尽くしてしもうた。』
『まあ、これだけやれば十分だろう。後で破壊しすぎたことを責められる可能性はあるが。』
『そこは朝廷と弾正殿に取りなしてもらうから安心ぞよ。』
『そういうことになると、知恵が良く回るな。』
『正面から見ればちりょく7、じゃが、裏からみれは100じゃ。それが麿よ。』
『済まん。何を言っているか良く分からない。』
『そなたのちりょくも下がったかの?』
『随分言うようになったじゃないか。』
『麿も成長しているのでおじゃるよ。』
『まあ、そういうことにしておいてやろう。』
確かに、知力40くらいは認定してやってもいいんじゃないだろうか。
武勇は9のままだけど・・・