難しい事を考えるのは、やめたそうです
元亀元年(1570年)6月
戦の準備でバタバタしているうちに改元されていた。
懸念していた毛利に特段の動きは無く、出雲では毛利軍優勢に傾いたが、尼子軍はまだ粘っている。
また、こちらが近江から撤退したタイミングで六角氏が兵を起こしたようで、信長によってあっさり蹴散らされていた。
しかし、信長と将軍義昭の溝は日に日に広がっており、こういった騒動の発端は、間違いなく公方様のお手紙である。自分の書いた手紙で挙兵した兵を自分で鎮圧しているのだから世話はない。
そして、半年近く領地のことを放っていると、いろんなことが進展している。
美作ではゴマの栽培、阿波では蓮根の栽培を奨励し、伊予や土佐の山間部を中心に、大型馬の増殖を開始した。
さらに、新田開発も順調に進んでいるし、塩田開発も順調だ。
普請事業としては、阿波の由岐坂に石垣と鉄砲狭間を付けた白壁で構成した小さな銃座を多数設置した。非常時には、少人数で敵の進軍を阻害するだろう。
また、宇都宮氏の大洲城が完成し、板島城も、堀の掘削と外郭の石垣が完成し、宇和島城と改称した。
さらに大きな変化があったのは徳島で、徳島城を建設中の中州と、中州の南に位置する富田の堤防が完成したため、勝瑞の町からの移住が開始された。この後、城と町のあった場所は、広大な水田に変わる予定だ。
兵力増強については、直臣やその家臣にも足軽を採用する動きが活発化しており、総計で一万五千近くいるようだ。石高で考えるとかなり多いと言える。
また、鉄砲は四千、大砲は三百となり、大友にも累計で五百丁ほど売っている。
そして、これは当領の話では無いが、大友宗麟が南蛮商人に対して、毛利家に火薬の原料である硝石を売らないように働きかけているようだ。これは地味に打撃となるだろう。
また、調略についても順調で、因幡・伯耆とも過半の勢力は一条方に付いており、残る国人衆がこちらに鞍替えしてくれれば、毛利に気兼ねなく領有を宣言できる。
毛利も今は自信喪失状態だし、各国の国人衆の気持ちも揺れている。
たとえ出雲を回復させられたとしても、傷は何年も残るだろう。
こちらはその隙を突いて、いつの間にか逆転していればいいのである。
このまま上手く行けば、輝元へ代替わりとなった時点でゲームセットだろう。
『それにしても、我が領内は上手く治まっておるが、弾正殿は何かと苦労が多いのう。』
『だから畿内に出るのはやめておけと言ったであろう。』
『まこと悪霊の言うとおりじゃ。』
『現地から報告が上がって来た時点では、既に現地では逆のことが始まっておる。これは彼の地では日常茶飯事だ。』
『総領様も言うておったのう。昨日の友は今日の敵で、明日の味方じゃと。』
『そりゃ、一生懸命やるのが馬鹿らしくなってくる。』
『そうよのう。麿も難しい事を考えるのは止めにしたぞよ。』
『中納言はもう少し難しく考えた方がいいと思うぞ。』
『そうは言うが、あんな状況で何一つ判断を過つなというのが、そもそも無理でおじゃる。』
『そうだな。弾正殿も後世では他人の言うことをまるで聞かなかったと評されることも多いが、あんな状況に置かれたら、信じられるのが自分一人になったとしても何らおかしくない。』
『報告そのものが嘘、という場合もあるじゃろうしのう。』
『そうなると、何でも力で押さえ込むのが一番手っ取り早くなるんだろうな。どうせ、歴史は勝者が書き換えるものだし。勝者の判断が正しかったことになるからな。』
『道理では無いのよのう。』
『まあ、悲しいかな、そういうことだな。』
『しかし、これからも謀反を起こす者が続出するのであろう?何で畿内衆はあんなにすぐ寝返るのじゃ?』
『まあ、機を見るに敏、と言えば聞こえは良いが、軽いな。』
『そういう気性なのかの。』
『無いとは言えんな。しかし、それ以上に皆がすぐ裏切るなら、自分もそうしないと生き残ることができないという、処世術じゃないのか。あそこは長らく細川も畠山も山名、赤松も皆、統治力が弱かった訳だし、それぞれが自立し、自らの判断だけで離合集散を繰り返しているだけとも考えられるな。』
『処方箋は無いのじゃな。』
『無いな。今の国人衆を一掃して、次の代を叩き直すほか、どうしようもない。』
『判断が早いからこそ、ころころ変わるのか・・・』
『そういえば中納言も判断早いな。』
『言うと思ったぞよ。どうせ麿も後世では軽薄と言われておったとか言うんじゃろ?』
『そう言われているが、実際は違うな。確かに軽いが、道理は弁えている。』
『とても褒めているようには聞こえんの。』
『中納言にも良い所はたくさんあるさ、多分・・・』
『お主、本当に神なのよのう・・・』
知らんけど・・・