越前の戦い
織田軍は4月25日、敦賀に至り、その日のうちに金ケ崎城に攻めかかる。
朝倉軍は金ヶ崎と、隣接する天筒山城に約四千を配置し、これを迎え撃つ。
朝倉軍は高所からの矢、織田軍は鉄砲で応戦し、随所で激しいつばぜり合いが起きている。
この隙を突いて徳川軍が主戦場の南、木ノ芽川沿いの湿地帯を迂回して、守備の手薄な南東側尾根を登ることに成功、そのまま優勢な兵力で押し切り、当日のうちに天筒山上を陥落させた。
さらに翌日からは織田軍も城の北や尾根沿いを伝って力押しを敢行。午後には朝倉軍の多くが戦線を離脱し、28日の朝方には堅固を誇った金ケ崎城は落城した。
本来なら、このタイミングで信長に浅井裏切りの報が届くはずだが、届かない。
これを受けた織田軍は海沿いを北上し、敦賀街道を経て武生に至る。
ここで、朝倉軍主力が、武生の帆山というところに陣を敷き、主力兵を日野川東岸に配置しているとの情報を得る。
朝倉氏の本拠、一乗谷を守るなら、絶好の場所と言える。
5月2日に両軍は日野川を挟んで対峙した。織田軍三万に対して朝倉軍一万五千である。
しかし、ここで織田軍は徳川勢と柴田勝家率いる計一万を北上させ、鯖江方面に向かわせる。一乗谷を襲ってしまえばもう勝ったようなものなのである。
これを受けて朝倉軍も陣を捨てて北上を開始し、織田本隊は易々と渡河を成功させてしまう。
徳川・柴田隊は鯖江で渡河し、ここで朝倉軍と交戦するが、挟撃された朝倉軍に最早打つ手はない。
午後には潰走を始め、織田の勝利は確定した。
落ち延びた朝倉軍は一乗谷に集結し、籠城戦を試みる。
織田本隊は上木戸側、徳川軍が下木戸側から同時に押し、両方から谷に雪崩れ込んだ。
谷沿いの館などは瞬く間に落ち、義景主従は詰めの城に籠城する。
知らなかったが、一乗谷城は奥に山城も持っていたのである。
しかし、ここにたどり着けた味方は少なく、四日ほどの攻城戦の後、5月7日には落城した。
こうして、戦国時代初期から全国にその名を知られた大名、朝倉氏はあっけなく滅亡し、義景を初めとする一族もほとんど助命されることは無かった。これは、史実とは違い、一族にほとんど落伍者が出なかったためだろう。そして、これで姉川の合戦も起きないだろう。
こうして、越前に柴田勝家を配した織田軍は5月22日、都に凱旋する。
兼定も、織田軍の敦賀通過を見て陣払いを命じ、5月23日に都に戻る。
ここで信長と戦勝を祝い、すぐに帰国の途につく。
もっと都に滞在しないのか?と兼定に聞かれたが、「義景の薄濃で酒なんか飲みたくないだろう?」と脅したら、すぐに都を離れてくれた。
まあ、どこまでが史実かは知らんが・・・
『しかし、この程度で終わってよかったのう。』
『お茶濁し程度で織田の機嫌を取れるなら、安い物だ。』
『しかし、浅井は出て来なんだのう。』
『ああ、子はともかく親の方は噛みついてくるかもと思ったのだがな。』
『しかし、これで良かったのじゃろう?』
『ああ、これで浅井を縛る物は無くなった。包囲網に加わることも無いだろうしな。』
『しかし、全幅の信頼を置けるかと言えば、そうでもないぞよ。』
『そうだな。精々油断しないことだ。』
『それで、どれだけ先の世の中が変わったのじゃ?』
『そうだな。織田包囲網のうち、朝倉が滅び、浅井は包囲に参加せず、三好三人衆は四国兵を使えない。相当弱まったと思うぞ。それに、参加勢力が少なくなれば、本来参加していた者達も二の足を踏むことになるだろう。』
『そうじゃのう。そうなれば、戦乱の世も早く終わるのか。』
『そうなればいいな。』
『しかし、早いのう。』
『何がだ?』
『一つの国が僅か一月ほどの戦で落ちてしまうのじゃぞ?』
『今更だな。中納言だって美作や讃岐で同じ事をしたじゃないか。』
『しかし、もうかれこれ百年もこんなことをやっておるのじゃぞ?何故今になってこんなに早いのじゃ?』
『何だ、そんなことか。最初は小領主が数百の軍勢で争い始め、弱い物が淘汰され、強い者が勢力を拡大した結果、今や二万三万の兵が当たり前に戦をしているだろう。』
『だから早くなったのか。』
『おそらく流れる血の量は変わらんと思うぞ。』
『なるほど。一度の合戦で流れる血は多いが、あっという間に終わるからのう。』
『世の中、意外に単純なものだ。』
『では、麿もあまり物事を難しく考えないように心掛けるぞよ。』
うん?何か言ったか?
『ところで、万千代の祝言はいつするつもりだ?』
『朝倉の薄濃で酒を飲む必要がないと、麿が確信した時じゃな。』
『まだ言ってるのか。あれを杯にするとは限らんぞ?』
『あんなものが目の前にあって、酒など飲めるか。』
『そりゃそうだな。』
こうして6月10日、松山に帰還する。