色んな事が同時に起きる
現在、一条軍は備後との境、笠岡と高屋(井原市)に陣を敷き、次の指示を待っている状態だ。
相手の毛利方は更に窮地に追い込まれており、山口では大内輝弘が高嶺城を攻め始めたようだ。
そして出雲でも尼子勝久が白鹿、新山、茶臼山など、出雲北東部を確保しつつ、月山富田城奪還に向けて動いている。
また九州でも、多々良浜から徐々に撤収が始まり、近くの立花山城周辺を固め始めている。
これは明らかな撤退戦の兆候であり、毛利は九州の支配を諦めたとみていいだろう。
そんな中での一条軍であるが、やはりというか何というか、都の足利義昭から停戦を仲介する書状が来た。
『これは、弾正殿の意思なのかのう。』
『違うな。公方様独自の考えだろう。』
『なら、聞かなくてもいいのか?』
『まあ、無視すると何かと五月蠅いからな。取りあえず保留しておいて、毛利軍が大人しく九州から退くようであれば、毛利と手打ちしてしまえばいい。』
『大友次第でこちらも兵を退くのでおじゃるか?』
『そうだ。もし、毛利が九州から退くのに手痛い損害を出すなら別だが、順調に撤退した場合、今度はこちらが毛利と戦うことになる。その前に公方様の仲介だから仕方無い体で兵を退いた方が良い。』
『そういうものなのか。せっかく毛利を破る絶好の機会じゃったのに。』
『無理はするな。機会はまた訪れる。』
『ならば、いかがするのが良いかのう。』
『すぐに毛利に使者を出し、三村の処断で手を打つ旨を伝えるのだ。』
『分かったぞよ。』
こうして、毛利とは一応の和議が成立し、12月14日から一切の戦闘行為が禁じられたため、兵を撤収することにした。
また、同様の書状は大友と毛利にも届いており、即時停戦と門司までの大友氏の領有が取り決められた。
これにより、秋月、高橋、立花らは大友氏により処断され、滅亡した。
一条家より西は、就任したての公方様の威光により、戦は収まったが、東はそういう訳にはいかないようだ。
伊勢を制圧し、益々勢いを得た信長は、義昭に対して殿中御掟を突きつけ、将軍の行動を制限する動きを取り、それを知ってか知らずか、義昭は将軍としての振るまいを始める。
そして、長らく越前の国内安定に専念していた朝倉が若狭の武田氏を押さえて支配下に置いた。こうして信長と朝倉義景の間に緊張が高まる。
こういった様々な動きの中で、一条軍は次の狙いを因幡・伯耆の二カ国に定め、現在、丸ごと当家の傘下となるよう働きかけている。
因幡は昔から山名氏の領国の一つであったが、その支配力は弱く、毛利と結んだ重臣、武田高信が鳥取城を支配している。因幡山名氏の当主豊国は、但馬に追われている。
とはいえ、その武田高信の支配力も弱く、有力国人が割拠している状態が続いている。
伯耆も元々は山名氏の領国であったが、天文年間に尼子晴久が奪った。
尼子滅亡後は一応、毛利の支配下ということになっていたが、尼子勝久に呼応した者もおり、現在無法地帯化している。
既に、黒田官兵衛と久武親直という、とても怪しげな二人を派遣して工作を行っているが、彼らも寄らば大樹の陰、毛利がバタついているなら一条と、まあ簡単に事が運ぶ。
因幡では前述した鳥取城主、武田高信のほか、半滝城の安藤氏、岩山城主安芸氏、景石城主景石氏、丸山城主吉岡氏らを次々にこちらに加えた。
伯耆においても尼子方に付いている日野衆や神西氏のほか、行松や南条といった有力者にも帰順を促している。
尼子勝久に従う兵の多くは、但馬守護、山名祐豊の後押しで加わった伯耆衆がかなりの部分を占めているから、これは毛利への援護射撃にもなるし、参加している国人にとっては二重スパイというか、尼子がダメだった時の保険、のような意味合いになる。
『しかし、何じゃのう。領地とは、こうも簡単に増えるものなのじゃのう。』
『その代わり、毛利と尼子を巡って争っているところを、さらに複雑にしてしまったな。』
『そうじゃ。因幡と伯耆はまだら模様のように、麿の領地が広がってしもうた。』
『そろそろ、あの辺の地図も作ってみないとダメかなあ。』
『さすがは悪霊。そんなことも出来るのじゃな。』
『四国に比べると曖昧だがな。』
『四国が出来るのじゃ。他も同じではないのか?』
『出雲や因幡は管轄外だ。』
『そんなことはおじゃらんであろう。いくら国譲りの事があったというても・・・』
『まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、ここ数年が大事だ。休む暇は無いぞ。』
『今までも無かったぞよ・・・』
『何だ。新徳丸が元服するまで頑張るんじゃなかったのか?』
『これは頑張り過ぎぞよ。』
『つべこべ言うな。毛利が立ち直る前に勢力を拡げるぞ。』
『何か、ついこの間までは自重せよとか言っておったのに・・・』
『余計なことは思い出さなくてもいいぞ。』
『何か、いろいろなことが同時に起こって大変なのじゃ。』
『まだまだ、これからが面白くなるんだからな。』