戦う謂われは無いのだが・・・
永禄12年(1569年)9月
一条軍はこの月、岡山に集結し、美作を経由して出雲に向かった。
鉄砲隊はもちろん、今回も城攻めを伴うということで、砲兵も帯同させている。
9月20日に岡山を発った一条軍は、津山、真庭を経て、25日に備中新見に差し掛かるが、青地という街道の狭まった所で、三村家と覚しき兵がいきなり攻撃を仕掛けて来た。
向こうは武装しているが、こちらはまだ戦支度をしていない平装である。敵うはずもなく潰走し、多くの死傷者を出しながら、真庭まで退却することになった。
このため、一条家は羽生監物を毛利方に派遣し、厳重な抗議と出雲出兵の中止、三村討伐を一方的に通告し、安並に三村攻めを命じる。
こうして、改めて本格的な動員が備前・美作に対して行われ、宇喜多直家を大将とする一万が集まり、隊が再編成された。
宇喜多と備前、備中の兵、およそ一万五千は、総社に陣を張り、四国と美作兵一万は真庭から再び新見方面へと兵を進めた。
「御所様、毛利から使者が参っておりますが。」
「すでに我らと毛利は手切れよ。お帰り願おうぞ。」
「それが・・・帰ってくれません。」
「叩き出すなんて粗野な真似はできんのう・・・仕方無い。為松、そなたが応対せよ。」
「承知。」
「此度は当方の不手際により、貴家には大変な無礼を働いてしまいました。何卒平に、平に御容赦くださいませ。」
「すでに当家と毛利家は手切れいたした。謝罪が終わったなら国に帰るがよい。」
「それはどうかお許し下され。」
「最早御所様は毛利と戦うと心に決めておる。それにしても、味方と思い込ませて騙し討ちとは、古今聞いた事も無い下劣なやり口よのう。これが毛利の流儀か?」
「そのような事はございません。此度の事、三村の暴走を止められなかった当方の責でございますが、決して、そのような企てをしたのではございません。」
「後からなら何とでも言えるな。我が四国勢の恐ろしさ、とくと味わってもらおう。」
「お待ち下さいご家老様。三村にはこの不始末、必ず責任を取らせますゆえ。」
「ならん。三村は一条が根絶やしにしてくれる。三村を庇うなら、ついでにかかって来るがよい。相手してやろう。」
会見は物の見事に決裂し、国司右京亮は安芸に帰って行った。
そんな中、現場では戦が続く・・・
四国勢は真庭から間道を南に下り、川面(高梁市)という比較的広い場所に陣を敷き、すぐ近くの寺山城の攻撃を始めた。ここにはほとんど守備兵がいなかったため、城はひとたまりも無く落城した。
ここからさらに間道を通り、三村氏の居城である成羽城を目指す。
一方の宇喜多軍は総社から高梁川を渡河し、真備という所で三村軍四千と交戦。これを散々蹴散らして川を遡り、備中松山に到達。そこに陣を敷いた。
四国勢は川面を発った二日後、三村氏の居城、成羽の居館を北から総攻撃し、瞬く間にこれを占拠したが、すでに三村一族は脱出し、すぐ近くの鶴首城に入ったとのこと。
そこで、城の対岸にある愛宕山を占領し、いつものように大砲を撃ち込むと、城はすぐに落ち、三村の一族郎党は確保された。
これを高梁まで護送し、勧告を行うと、備中松山城は開城、降伏した。ここに岡家利を置き、再び軍を分けて進軍する。
一方は花房正幸率いる兵三千で、新見方面に進軍し、もう一方を安並と宇喜多が率いて高梁川を下り、安並隊は真備から小田川沿いに西進、備後との国境を目指し、宇喜多隊は海沿いを笠岡に向けて進軍。双方とも10月10日には国境に到達し、陣を敷いた。
これに対し、大友、尼子の残党、大内輝弘と敵だらけの毛利軍に兵を出す余力はなく、福山に兵三千をを送り、対峙するのが精一杯であった。
『のうのう、もしかして、毛利、滅ぼせちゃう?』
『止めておけ。相手はまだ六カ国の太守だ。それにまだ、使い道はある。』
『しかし、麿もいつの間にか九カ国の太守になってしもうたぞよ。』
『全く驚きの進化だな。』
『結局、宗珊も和議を結ぶのを止めて、帰って来てしもうたしの。』
『それはそうなるな。大友も攻撃を再開したようだしな。』
『三村はどうするのじゃ?』
『宇喜多に処断させればいいんじゃないか?』
『そうよの。今更毛利に気を使う必要もないの。』
『そうだ。今はもう、当家の方が力は上だからな。』
『因幡や伯耆も頂いてしまおうかの。』
『まあ、別に兵を進めなくても、交渉で何とかなりそうな気配はあるな。』
『弥三郎か、そなたご推薦の官兵衛でも使うか?』
『まあ、やるだけの価値はあるな。』
『決まりぞよ。』
こうして、毛利に対しては遅延戦術による和睦の引き延ばし、因幡・伯耆二国に対しては自陣営への引き込みを行うことが決まった。
ここまで全て成り行き任せのなし崩しである・・・