また、新たな展開を迎える
兼定たちが松山に戻ってくると、大きな動きが起きていた。
「何と、尼子の残党が出雲で蜂起したと。」
「はい。尼子孫四郎(勝久)という者が旧臣や近在の者を糾合して城を築き、月山富田城を落とすべく、戦いを挑んでおるとのことでございます。」
「やはりの。あの地は一筋縄ではいかぬぞよ。」
「また、大友軍と毛利軍も、筑前多々良浜において大規模な合戦を始めた模様にございます。恐らく、尼子の残党も、これに連動した動きかと。」
「ほれ、言わんこっちゃない。麿の言うとおりにしておけば良かったのじゃ。」
「しかし、毛利と連動して龍造寺も動いている様子。」
「では、麿らは美作に行こうかの?」
「宇喜多を使いますか?」
「まあ、使わんと、彼奴もヘソを曲げるでおじゃろう。」
「では、四国からも出しますか。」
「伊予の直属兵のみで良いぞよ。主は備前と播磨の兵で何とかするぞよ。大将は為松に任せようかの。」
「御意。」
こうして急遽、美作への出陣を決める。標的は同国の東部を支配する後藤氏で、比較的尼子に近かった勢力だが、今は独立勢力化している。
6月1日に出撃を発布し、翌日には伊予兵二千が讃岐に向かい、長宗我部、香川の両氏も参戦の意向を示したので、出陣させることにした。こうして四国勢八千と備前・播磨勢一万、宇喜多勢三千の計二万一千が動員された。
備前及び四国勢一万四千は、吉井川を遡った周匝(すさい、赤磐市)に進軍し、播磨衆七千は国境の杉坂峠を越える経路を進軍する。
『のうのう、今回の戦は上手くいくかのう。』
『後藤の領地だけなら、この兵力を見せつけただけで降伏するかも知れんぞ。』
『しかし、親尼子で親浦上なのじゃろう?信用できるかのう。』
『確かにな。結局、攻められたら抵抗せずに降伏するクチかもしれんな。』
『それでは我が軍の戦力にはならんでおじゃる。』
『少なくとも、最前線にいてもらっては困るな。』
『ならば、すげ替える他ないのう。』
『その線で行こう。』
『しかし、どうして今までこちらに帰順しなかったのかのう。』
『一条家に美作を攻めるそぶりが一切無かったからだろう。かといって、毛利も積極的には出て来ない。どっち付かずの状態を続けるほかに、手が無かったのではないか?』
『しかし、どちらにも付かんというのは、一番悪いと思うがのう。』
『今の状況ならば、そう言えるな。』
『毛利は怒らんかのう。』
『それどころじゃないし、親尼子の勢力を叩くのなら、喜んでくれるんじゃないか。』
『そうよの。美作から出雲に兵が雪崩れ込んでも困るからの。』
『我々は、毛利のために戦っている。』
『それは・・・どうかのう・・・』
まさか、兼定に否定されるとは・・・
6月8日に早くも杉坂峠を越えた播磨衆は、後藤配下の江見氏が守る福、鯰、越坂山(いずれも美作市)の各城を落とし、さらに西進を図る。
対する四国・備前衆は、吉井川対岸の鷲山城(美咲町)を無血開城させ、吉井川支流の吉野川沿いに北上、両軍は6月11日に合流し、四国勢が林野城、播磨衆が吉野川の対岸にある三星城に攻めかかった。
しかし、三倉田という場所の高台に大筒を据えた一条軍は、林野城を一日で降伏させ、今度は林野城から三星城を砲撃し始めたことで、こちらもあっさり降伏した。
城将である後藤勝基、元政親子を捕らえ、さらに西進した一条軍は、吉井川と加茂川の分岐(津山市井口付近)まで占領し、近くの河辺という村の丘陵に築城を開始した。
また、別働隊は吉井川を下り、各村を占領した。
こうして、美作東部の英田、勝田、久米郡の一部を手に入れた。まだ戦力的には随分余裕はあるが、やり過ぎると毛利を刺激するので、このくらいにしておいた。
これで、岡山県の三分の二ほどは、当家の支配下となった。
後藤親子は領地没収の上、宇喜多家預かりとした。
そして、領地については、久米郡の一部を宇喜多、残りは後日、誰かに恩賞として与える予定で、暫定的に蔵入地とした。
こうして美作出兵は終わり、7月4日に撤収が始まる。
各部隊の兵も、諸将も消化不良なのか、かなり不満もあるようだが、どさくさ紛れに掠め取った領地である。彼らを何とか宥めて戦は終わった。