播磨攻略
織田弾正が、北伊勢に侵攻していたことは知っていたが、いつの間にか斎藤義龍が亡くなり、稲葉山城も落ちて、斉藤氏は滅亡していた。こちらの戦もそうだが、終わってしまうとあっという間だ。
さて、播磨との国境に展開していた一条軍約二万五千は雪崩を打って赤穂方面に攻め込んだ。赤松・浦上連合軍も龍野の揖保川沿いに陣を構えたとのこと。
敵兵は約八千。播磨の主ならその倍くらいの動員があっても良いはずだが、足並みが乱れているのは下馬評どおりか。
これを受けて淡路から一万五千が対岸の垂水(神戸市)に上陸した。先遣隊は一旦、摂津境近くの鉢伏山に進出した後、全軍の集結した9月22日、西進を開始した。
程なく、三木城の別所氏や明石、淡河といった有力者が次々に離反し、加古川まで易々と進軍することが出来た。ここで別所安治を大将とする約四千を前衛に姫路方面に進軍する。
そして、24日に姫路の手前、御着に陣を張ると、赤松軍は兵を二手に分け、東西両面に対して迎撃の構えを見せる。
これに対して赤穂に留まっていた讃岐・土佐兵は前進を開始。
相生から兵を二手に分け、翌25日午後、本隊が敵陣の正面に出ると同時に、別働隊が揖保川の上流部の渡河を開始した。
同時に本隊から一斉に砲撃も始まり、耐えきれなくなった赤松軍は陣を捨てて退却した。
夕刻に姫路方面に潰走してきた友軍に混乱した赤松軍は、そのまま追撃してきた敵と正面の敵に挟撃され、瞬く間に崩壊してしまった。
翌26日に小寺氏の姫山城(姫路城)を無血開城させた後、讃岐兵一万五千は赤松氏の本拠、置塩城(姫路市夢前)攻略に、土佐兵一万は宍粟郡と佐用郡の平定に、阿波兵は摂津境の防衛のため、それぞれ兵を分けた。
ここで、置塩城主、赤松出羽守(義祐)から降伏の申し出があり、城を接収した。
また、西播磨の有力家臣である長水山城主(現:宍粟市山崎)宇野下総守(政頼)、民部大輔(祐清)親子が降伏したため、播磨をほぼ制圧し、残るは、鶏頂山城(たつの市)に立て籠もる赤松下野守(政秀)のみという状況となった。
このため、姫路周辺を片付けた長宗我部元親が城を囲み、兵糧攻めを行い、11月4日に開城させて、播磨での一戦は幕を閉じる。
一方、宇喜多直家であるが、9月10日に出陣し、手始めに撮所氏の守る龍ノ口城を攻め落とした。翌11日には龍ノ口から旭川を渡河。西進して備中境に入り、その日のうちに備中松島城(倉敷市松島)まで進んだ。
更に手を緩めない直家は、石川氏の居城、幸山城(総社市)まで落とし、最終的には高梁川以東を制圧した。
対する三村方は、新当主が兵の立て直しに失敗し、本拠まで下がったこと。庄元祐、石川久智ら、有力家臣を失っていたことなどから有効な策が打てず、大きく勢力を削られる結果となった。
その後、直家は、最後まで抵抗する金川城(岡山市北区)を攻め、松田氏を滅亡させ、こちらも11月7日に帰還した。
これにより、宇喜多氏は備前五郡(赤坂、上道、御野、津高、児島)と備中三郡(賀陽郡の大半、窪屋、都宇)を持つ大大名に成長した。
こうして、11月初旬には戦こそ終わったが、毛利、三村、三好といった諸勢力との今後が不明瞭なため、それぞれの軍勢は各地の城に分散し、引き続き滞在することとなった。
『しかし、今回もあっという間に終わってしまったのう。』
『それは、弱い相手としか戦をしないのだから、当然だ。』
『もう少し骨のある相手とやりたいのう・・・』
『負けたいのか?』
『やっぱり止めておくぞよ・・・』
『これから降将の処遇と毛利との交渉が控えている。まだまだ忙しいぞ。』
『やっと麿の出番でおじゃるな。』
『そうだな。今まで何もせず、何も考えずだったからな。』
『まあ、麿がいなくても、二カ国くらいは問題無く取れるということじゃな。』
いいのか?それで・・・
『しかし、これだけ領地が拡がると、人材不足じゃのう。』
『確かにそのとおりだ。あまりに急拡大し過ぎた感があるな。しかし、拡げられる時にやっておかないと、放っておくと相手も強くなる。』
『そうよの。それで、宇喜多はどうすればよい?少し大きくなりすぎたようにも思えるが。』
『彼は弥三郎以上に野心家だからな。毛利と対立している内はいいが、放置すると何をしでかすか分からん。しかし、人材不足はあちらも同じだと思うぞ。』
『当家ほどでは無いと思うが。』
『浦上の家臣だった者の多くは、こちらに来たからな。備中の国人はついこないだまで敵だった連中だ。あそこもそれなりに厳しいと思うぞ。』
さて、宇喜多家との距離はどうしよう・・・