一条家を巡る状況について
土佐国は西日本においては比較的広いが、現在でも森林率が80%を超え、全国有数であることからも分かるとおり、山ばかりの貧しい土地である。
石高も、長宗我部時代に19万石、江戸初期でも24万石と、季候や面積に比べて驚くほど少ない。恐らく弘治年間の石高など、10万石内外だと推測する。
この国内に土佐の七雄という大身の領主がいた。
東から安芸、香宗我部、長宗我部、本山、吉良、大平、津野の7家である。
この他に、山田、片岡を初めとする300を超える領地持ちがひしめく、これが戦国期の土佐である。
この7家のうち、既に本山氏によって実質滅亡している吉良氏を除けば、まだ6家が存在している。
安芸氏は土佐の最も東の安芸郡を領有している。
蘇我赤兄を祖とすると言われる古い一族で、兼定の姉が現当主の妻である。
香宗我部氏は香美郡を領有しており、甲斐武田氏の流れを汲む。
香美郡の宗我部さんだったから香宗我部氏と呼ばれ、呼称が定着したものである。
長宗我部国親の三男、親泰が養子に入り、実質的に乗っ取られていく運命にある。
長宗我部氏は古代の帰化人、秦氏が祖と言われる。
長岡郡を領有しており、長岡郡の宗我部さんだ。香宗我部氏とは全く異なる一族である。
本山氏は元の姓を八木氏といい、平安時代から土佐に根付く古い国人である。
長岡郡の山間部の本山を本拠とし、土佐郡も領有する。守護であった細川氏が土佐から去った後に現在の高知市平野部に進出し急進した。
吉良氏はかつて吾川郡の南東部を領したが、本山氏により嫡流は滅亡した。
大平氏は吾川郡を領有したが、一条氏に敗れ、僅かな領地を認められている。
津野氏は土佐西部の高岡郡を領有しており、藤原氏を祖としているらしい。津野荘の地頭から勢力を伸ばした。一条房基に敗れ、当家に臣従している。
これに、長宗我部氏の北に隣接する山田氏、大平氏の北に隣接する片岡氏辺りまでが比較的大きな領主であるが、山田氏は長宗我部氏の仇敵であり、本山氏が弱体化した今、非常に危うい立ち位置にいる。片岡氏は反面、一条、長宗我部双方と良好な関係にある。
ちなみに、土佐の七雄に公家の一条家はカウントされない。
さて、そんな土佐の戦国時代であるが、応仁の乱を避けて、時の関白、一条教房が自身の所有である幡多荘に下向し、直接経営を始めた。この時代の土佐は守護である細川氏が津野を除く6領主をガッチリ掌握しており、比較的平穏な時代であった。
変化が起きたのは15世紀末。守護細川勝益が土佐から退去したことである。
表向きは土佐の季候が合わなかったとあるが、勿論そんなはずはない。
守護不在になった土佐は、いきなり戦国時代が始まる。
さらに、畿内で起きた細川政元の暗殺に端を発する細川高国と細川澄元の跡目争いが飛び火し、土佐国内の国人も双方の陣営に分かれて戦い続けることになる。
まず襲われたのが、守護の腰巾着として周囲の恨みを買っていた長宗我部氏。
周辺の本山、山田、吉良、大平などの連合軍に攻められ、本拠岡豊城は落城。当主兼序は討死、幼い国親は家臣に連れられ、一条氏の元に落ち延びた。
その後、一条氏の後押しにより旧領を回復した国親は、本山、山田などに戦いを挑む。
諸説あるものの、ゲームの多くが採用している一般的な土佐の戦国時代は、以上のようなものである。
一条氏は意外に対外的な行動を取っており、土佐中部や伊予南部に向けて盛んに兵を進めている。特に外征を積極的に行うようになったのは土佐一条氏3代、房基の頃からである。
また、大友氏のみならず、日向の伊東氏や伊予の宇都宮氏と婚姻を結び、外交も積極的に行っている。
一条兼定は父房基の嫡男で、母は豊後の大友義鑑の娘である。ちなみに、兼定の継室も大友宗麟の娘である。
一条家は土佐の最も西、幡多郡を領有しており、他の国人の3倍近い石高を持つ、国内では突出した存在である。
また、他の出自が怪しい者とは違い、正真正銘の名門であり、圧倒的な威光を放つ。
居城は中村御所で、現在は一条神社となっている。裏手の山には中村城があるが、これは長宗我部時代に整備されたもので、一条時代は詰城に過ぎない。
本拠地は中村(現四万十市)で、渡川(四万十川)と後川に挟まれた低地にあり、京から下向した教房以来整備を続けた碁盤状の町並みから「土佐の小京都」と呼ばれ、鴨川や東山の地名が残るほか、大文字の送り火なども行われている。
家臣は土居、羽生、安並、為松といった家老衆のほか、一条殿衆という53人の家臣、国人、公家出身者を従える。
また、一条家の領地は伊予の西園寺氏の勢力圏とも接している。石高は一条氏とさほど変わらない大身であり、西園寺15将と呼ばれる数千石~1万石クラスの有力国人を家臣に従えている。
しかし、全国的に見れば中小零細に過ぎない一条氏が乱世を生き残るのは、並大抵のことではない。