烏山天使 はだしの人
ぼくとエミはいつものように連れだって塾を出た。マンションが同じなのでいっしょに帰ってくるようにぼくも彼女も親から言われている。行くときは別々なんだけど明るいからね。でも帰りは、夏はいいけど秋からはすぐ暗くなって不用心なんだ。
「エミ。エミったら待ってくれよ」
「ふん! 先行くわよ。グズ!」
連れだってとは言うものの、エミはずんずん行ってしまう。最初のころは手こそつないでなかったけど、並んで歩いてクラスのこととか野球やサッカーのことなんか話していた。ぼくはサッカーのほうなんだけど、エミは野球なんだ。それも阪神タイガースのファンて来てるから笑っちゃう。パパが大阪生まれで根っからのトラ党なんだって言ってた。
「なにしてるの。グズね。サイテー」
さっさと行くなら先に帰っちゃえばいいのにさ。ぼくの姿が見えなくなりそうになると道の真ん中で待ってるんだ。威張って腕を組んで口をへの字に曲げて怒って突っ立ってる。駅前の繁華街で人がいっぱい行き来してるのに、人の流れのじゃまになっても平気なんだ。ぼくのほうが恥ずかしくなって駆けだして、ごめんごめんなんて謝る始末さ。
「なんでそばにいないの! わたしを守るんでしょ」
「もっとゆっくり行こうよ。急ぐことないだろ」
「忙しいの。ネットで英会話とか。キミとちがうのよ」
ぼくがエミの横にたどりつこうとしたとき、一瞬早く彼女はくるりとむこう向きになってまさに一歩を踏み出そうとしたときだった。上げた右足のスニーカーがアスファルトに着地する寸前にエミはフリーズした。
「あ」
文字どおりカクンと固まってしまったのだ。
「え」
ぼくはびっくりして一歩前に出て彼女の顔をのぞき込んだ。エミの眼はなにかをとらえ、へんな光を帯びていた。
「エミ。どうした」
彼女はスマホを持った左手を挙げて前方を指し示した。
「アれ」
釘付けになった彼女の視線の先へとぼくは顔を向けた。顔がそちら側に向いた瞬間、ぱっと空気が変わった。オーラがあふれていて、それもピンク色のものすごいド派手なオーラだった。
「なんだ?」
灯りが点きはじめた街のど真ん中に、ピンク色のオーラがあったんだけど、それを目にした瞬間、ぼくの気持ちが動いた。見なかったことにしたいと思ったんだ。
まわりの人たちもぼくと同じ気持ちだったんじゃないかな。そこには買い物客や黒っぽいスーツ姿の通勤客なんかの人たちがたくさんいたんだけど、どの顔もピンクのオーラなんか目に入らないかのように無視を決め込んでた。どの顔にもピンクの光が反映してるのにね。見ないふり、見えていないふりをしているように見えた。それは本能が命じてるんだきっと。でもエミはちがった。
「スゴくない?」
まず、オーラの主は一人のオジさんだった。笑みを浮かべて大股でまっすぐ前を見て歩いていた。目に迫ってくるのはどうしようもなく明るいピンクなんだけど、なにをどう着ているのかよくわからない。襟元にひらひらが付いてて、はだけた胸からぼさぼさと毛がのぞいていた。ズボンはあれは半ズボンみたいなものなのかな。色はピンクだったか明るい黄色だったかチェックだったか、はっきり記憶に残らないようなズボンだった。
頭の背後から大きな旗をクロスさせたようなものが見える。なにかを担いでいるのかな。顔がまたなんと言えばいいのか。笑顔である。丸い顔が輝いている。ヒゲが鼻の下やあごにうっすら見えて汚く見えるんだけど、派手な色彩の衣服にはよく似合っていた。頬はリンゴのように赤らみ、ぽっちゃりしたくちびるは漫画の登場人物みたいだ。多様性なんてことばのはるか上を行っちゃってる。
オジさん本人もまわりの人には関心がないようすだ。まあ、そうじゃなきゃこんな姿で街は歩けないよ。脇目もふらず足をすすめている。
「ね、ほら。はだしよ」
エミが指さすので「やめなよ」とぼくはたしなめながら指の先へ目をやった。
ほんとうになにも履いていない。裸足だ。真冬ではないが、いまどきどんな季節だろうと素足で歩いている人間はいない。それなのにその人ははだしだった。
あ。手に青い包みを提げている。『Vie De France』、すぐそこのパン屋さんのだ。ぼくもよく菓子パンを買ってもらうから知ってる。満足そうな表情はいつもは人気で買えないパンが買えたとかかな。ぼくだったらスキップしちゃうね。
そんなことより問題は裸足だ。
はだしで道を歩けばなにを踏んづけるかわかったもんじゃない。小石やガラス片も落ちてるだろうし、犬のフンやおちっこの跡を踏んでしまうかも。忘れて来たのかな。でも足を地面におろせば気づくよね。じゃあ、やっぱりわざと裸足なんだ。
「ねえ」
エミがじっとピンクのオーラの足下を見ながら肘を突っ付いた。
「うん」
「お相撲さんてはだしよね」
「え」
「ね。ほら、似合ってない?」
言われてみてなるほどとぼくは思った。お相撲さんのまわし姿には裸足がふさわしい。同じようにピンクオーラの衣装にも裸足はぴったりだった。それも、これ以外に似合うものがあるかというほどマッチしていた。そうか。このピンクのオジさんもお相撲さんじゃないけど『はだしの人』なんだ。
そう考えてあらためてその人の全体を見ると、きれいに調和が保たれている。異様な姿かたちなのに、それを中和する力がはだしにはあった。はだしが安心感さえ与える。逆になにかを履いていたとしたらコワいだろうとさえ思った。
ぼくはなんだかほっとした。はだしの理由がつかめたからだ。エミもそうにちがいない。ぼくたちはあらためて人混みのなかのピンクのオーラを見つめた。それはずんずんとぼくたちに迫ってきていた。すごい迫力だった。
それにしてもまわりの人たちはほんとにこのピンクが見えていないのかな。ふと思ったんだけど見ないふりじゃなくてほんとうに見えなかったのかもしれないね。拒絶する心が視界をさえぎっちゃってさ。ぼくだってエミがいなけりゃ見えないふりして、それとも、視界から閉め出して通り過ぎてたんじゃないかな。
オジさんはぼくたちの横を通り過ぎようとしていた。ぼくもエミも直立不動のままそのピンクのオーラを横目にやり過ごした。そのとき空気のいたずらでオジさんの青い包みから焼きたてのパンの香りがすっと鼻をなでていった。
「おなか空いたな」
ぼくが言うとエミはまたバカにして両手をひろげ、やれやれと首をふった。
「買い食いでもしていけば。わたし先に帰る!」
ほんとにそうしようかなとパン屋のほうへ顔を向けたとき、ぶわっと右頬に風圧を受けた。
「わ」
なんだろうと振り返って仰天した。
浮いてたんだ、ピンクのオジさんが。
はだしのつま先でアスファルトの地面をトンと蹴ってふわりと浮いたんだ。ぼくが頬に受けた風圧の正体は羽ばたきだった。大きな翼がゆったりと羽ばたき、ゆうゆうとピンクのオジさんを持ち上げていた。頭の後ろに見えた旗のようなものは大きな翼だったんだ。
「うわ!」
ぼくは叫んでエミの肩をつかんだ。
「なによ!」
振り返ったエミはぼくの背後に羽ばたきを見たにちがいない。鼻をふるわせたかと思うと顔がひきつって固まってしまった。しかし彼女の目線は上方に移動しつつあった。羽ばたきが上昇していくからだ。ぼくも斜めにかまえたまま、そっちをずっと見ていた。
まわりの人間たちはなにも起こっていないように家路をたどっている。なにも見てはいない。ぼくとエミだけが足を止めて立ちすくみ、じょじょに高度を上げていくピンクのオジさんの姿を追っていた。街明かりに映える派手なピンクの姿は、だれの目にも強いインパクトで迫っていたはずだった。でも見ない。誰一人として見ようとはしなかった。
ぼくもエミも強い衝撃を受けながら、ピンクのオジさんを見送った。オジさんの姿は暮れていく空へ小さくなっていき、やがてはるかに消え去ろうとしていた。そのときぼくたちはハッと思い当たった、はだしのほんとうの意味を。
「靴、いらないんだ」
空を飛ぶのに履き物は必要ない。それどころか飛ぶ妨げになりかねない。
「(天使!)」
天使は靴をはかない。
ぼくもエミも放心したまま突っ立っていた。人の流れがぼくたちのわきをなにごともなく通りすぎていく。エミはぼくの手に触れたかと思うと強くにぎってきた。ぼくもその手を力を込めて握りかえした。
*
そのときつながれた手は数十年に渡って離れることなく、互いに寄り添って生活することになった。天使の導きかもしれない。
私たちは老いてそろそろ潮時かなと考えていた。
「あなた。行きましょうか」
「え。ああ、そうだな」
私とエミは出発するのはいっしょにと決めていた。
支度をすべて整えると、ド派手なピンクの衣装を身にまとい、エミの希望で黄色と黒のトラ柄のマフラーを巻いた。そして、もちろんはだしで街路に立った。
やはり誰も私たちのことは気にとめない。二人は大通りに向かって歩き出し、途中で『Vie De France』へ寄った。その青い包みを手に提げ、翼を大きく広げて飛翔した後も、誰も気づかないと思うと愉快で、私はふと地上を振り返ってみた。すると。
小さな目が、ベビーカーに乗った小さな顔が、私たちのほうをふしぎそうに見あげていた。視線がぶつかった。私が手をふると、その子は満面に笑みをうかべ、両手をふり回して喜んでいた。
了