異世界なろう系チートなる主人公のセカイ観
世界の破滅と二人の恋愛関係というセカイ系アニメから、日常系・空気系という同性同士のありふれた日々を生きるアニメへ。少女の百合アニメは、さらにゆるっとした性的部分を抑えた非人間・半人間的へと発展したりもするが、ま、いいでしょう。ケモナーやAIロボや幼女化とかは置いておこう。
異世界なろう系という異世界で空気系のレベルのようなバトルをする展開。世界の危機は、異世界の危機として脱臭化される。自らの世界の危機にはならず、ゲーム的ファンタジー世界の崩壊の危機であって、世界は、日本という転生前の場所は、ずっと残る。
転生後主人公が、元の世界に帰って、その世界を破滅させてやる、という願望に満たされることはない。どんなに酷い目にあっていても、不思議なくらいストンと死を受け入れ、しかもブラック企業に仕返しをとも思わない。
態度の切り替え、ストレス社会への適応を見たくもなる。マッチングアプリで恋愛も切り替え切り替え。落ち込んでる暇なんてない。
セカイ系は、目の前の現実の崩壊、自らの世界の崩壊という切迫と深刻さで向き合うことになるが、異世界では、世界の崩壊は深刻さを減じられる。もしくはスローライフのように、もう救い終わってからスタートということも。
《わたしたちの世界》から《彼らの世界》への闖入者となっているボクらは、世界からチャレンジされる存在ではなく、異世界にチャレンジする存在へと昇格されている。
受身的に被害者として異世界に行く以前の物語から、受身だが誘い受けの如き態度で異世界へと積極的に転がりこむ。
ボクらは、世界を救う、救わないを選択できるレベルにまで俯瞰できる、あくまでもゲームをプレイする気持ちのように、一歩引くことができる。ゲーム内転生だと、さらに攻略情報などで、世界を構築物として神の視点から睥睨できる。
世界の危機は、あくまでヨソゴトなのだ。ぶっちゃけると、異世界になんか愛着を湧いてないんですよ、郷愁的なレベルまでは。救う救わないは、どこまでいっても気分次第のレベル。
異世界なろう系に、ヒロインは必須なのか。ヒロインとセカイの繋がりは、どういうものなのか。
少なくとも、この恋愛関係が成功しなければ、だいたいの主人公は世界を救ってやろうという気分にはならない。初期の出会いによって、異世界への好感度を上昇させる役割が主に与えられる。
そうなると、ヒロインの死は、単純に異世界を滅ぼそうチート主人公のボクくんとなる。まぁ、ヒロインデッドエンドはまずないので、こんな裏側はどこかに捨て置いてもいいのかも。
セカイ系としての異世界なろう系を成立させる場合、まさしくヒロインとの関係が破綻する時、世界を滅ぼすのは主人公であって、そして、ヒロインとの出会いが成功の場合、世界を救うのは主人公である。
つまり、セカイ系としての異世界なろう系は、二人の恋愛関係が他の社会的なものを踏まえずに、いきなり世界の危機となる。そして、だいたい、その危機をぶつける主人公はチート主人公となる。
セカイ系の滅ぼす・救う主体は、チート主人公となるのだ。どこかの異形のモンスターとかではなく。
セカイ系に無理やり繰り込む異世界なろう系を終えたとして、空気系・日常系要素は、どこにその派生を見ればいいのか。
バトルというもの、胃能力バトルが日常系の中に入ってきたように、異世界バトルものは、そのバトルとしてハラハラ感が限りなく薄くなる。圧倒的なチートや戦力による蹂躙となる。
このバトル要素は、バトルの真似事、ファイトクラブ的なお遊戯としてのバトルになる。
スローライフでもバトルを行えるように、バトルと日常系は折り合いをつけている。
そもそも、主人公はバトルの観戦者・第三者的位置にいるのが、ほとんどだし。スポーツ観戦、途中で乱入みたいなエンタメ。
加えて、異世界というだけで、僕たちのメンタルは軽くなって、その世界を空気のように軽んじる態度を得ることができる。ファンタジー世界の存在の軽さは、反省的にならないと自明だ。NPCを殺害しても平気なのは、極めて通常の反応で、元住民を所有物扱いする植民地的根性もあるだろう。世界のために何ができるか、ではなく世界はボクに何をしてくれるか、という自己本位。
世界に責任を負ってない状態で、神の如き力を持つものが、世界に干渉する。この軽さは、空気系や日常系を与えるギャグ的要素を付与してくれる。
能力のあるものが能力を発揮しないのは、スポ根からギャグ的スポーツマンガへの移行でもあるけど、リアルを飛び越えることで非日常を与えているのに、日常系と呼ばれるような軽さを獲得できる。
やれやれ系主人公が世界を救うというのは、意識高い系の敗北っぽいのもいいのかな。モチベーションや精神論の多いから、努力や気合なんて、才能の前では無意味、というのは美しいのかもしれん。
異世界なろう系は、セカイ系と日常系を融合しながら、その両方を獲得したハイブリッド型の進化となった。宗教が今までの神話を統合していくように。文学も以前の作品を中に組み込むように。
異世界なろう系でチートとスローライフは完璧な発展様式だ。
セカイ系の建前を踏まえつつも、空気系のような楽観さを得ること。世界の危機と真剣に向き合うのではなく、あくまで所詮世界の危機でしかないと振る舞う自由。これは異世界ではないといけないし、解決手段としてのチート能力が必要になる。
【追記】
異セカイ系は基本的にハッピーエンドです。セカイ系がバッドエンドが基本だと感じるのに変わって。空気系であるからこそ、そういうものとも思える。バッドエンドは許容されていない。
異セカイは助かることが前提なのは、異世界に逃避的に成功を求めているからかもしれませんが。
セカイ系は10代の少年少女の恋愛が中核だと思えるのですが、異セカイ系は、もう少し上の年齢になります。つまり、挫折、現実というものの壁をすでに経験している年齢です。
だから、バッドエンド的な衝撃に対する耐性があります。何もかも上手くいくわけないだろう、と。10代でなければ難病ものは難しいです。20代、30代になると、医療の限界を知って、結構、簡単に人が亡くなると理解します。そこにバッドエンドがあっても、日常なんです。
難病が非日常になるのは、学生が死するというときです。交通事故でも若年性のガンでも自殺でも。これが社会人だと、ある程度、受け取められます。
バッドエンドに対して意味を見出せない。
だったらハッピーエンドの方がいいとなるのかな。
予想を超えるハッピーエンドにしろ、と小学館の漫画家も言ってますね。バッドエンドで予想外は予想の範疇。
セカイ系がバッドエンドなのは、現実的なリアリティ追求もあると思います。現実世界なので、そんなに上手くいくと白々しいのですよ。異世界のファンタジーだと、リアリティを多少ズレても許容しやすい。