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──朝。
まだ覚醒していない頭のまま、俺は洗面へと向かう。染み付いた習慣に任せ、洗顔と歯磨きを済ませた俺は、目の前にある姿を凝視した。
そこには、肩幅も小さく華奢で肌の白い、長い前髪で目元を隠した…ショートヘアーの少女が、下着姿で恥じる事もせず、向かい合うように立っている。飾り気の無いブラジャーに包まれた胸は、小振りながら実に綺麗な形をしていた。
少女はその細い指で、前髪を掻き揚げる。その愛らしいマスクの中央を占める二つの輝きは、朱を帯び妖艶さを秘めていた。
「……人間のそれじゃねぇよな…この色」
透明感のあるソプラノの声が響く。…俺はため息を吐いた。
本当に見れば見るほど、それは女性…しかも美少女と呼ぶに何の抵抗も無い容姿。程好く締まった腰に、艶かしいヒップライン…もっとも、今は上の下着とは不揃いのトランクスに隠されているが。正直、誰が信じるだろうか? そのトランクスの下に、朝の生理現象によって自己主張を行う、男性の象徴が存在する事を。
そう、目の前の…鏡に映る少女は『男』だ。
俺は小さくため息を吐き、軽くシャワーで身体を流した後、自室へと戻り着替えを行う。清潔感の伴うカッターシャツにチェックのズボンという、ありきたりなデザインの制服に身を包んだ俺は、昨夜飲みかけのまま放置していた珈琲を手にリビングへと向かう。白い陶器の器に注がれたそれは、冷めきり香りも風味もないが、寝起きで水分を欲している今の俺は、さほど気にならなかった。
階段を下り、俺は珈琲を口に運びながらリビングへと続く引き戸を開く。するとそこには、見覚えのある黒のスーツに身を包んだ、白髪の雑じるブラウンの髪の男性が待ち構えていた。
「おはようございます。天城様」
「ブフォッ!!」
俺の姿を見るや、彼は一礼し挨拶を投げかける。気を緩めすぎていたのだろう…俺はあからさまな反応をしてしまった。
こ、この人って、双子ん所の執事さん…だったよな?
「……えっと、確か瀬葉須さん…でしたっけ?」
「はい。覚えていて下さり、恐悦にございます」
吹き出した珈琲で汚れた口元を拭きつつ、俺は目の前の場違いな人物に問いかける。彼はその言葉に、深々と頭を下げ答えた。
「いえいえ…そんな大層な事じゃ……って、そうじゃなくて!」
「どうかなされましたか?」
「どうかなされたのは、あんたですよ!」
涼しげな表情で、俺の言葉に小首を傾げてみせる彼に対し、俺は更にこう続けた。
「何で此処に…というか、一体どうやって入って来たんですか!?」
当然、寝る前に戸締りはシッカリしました。それぐらいの防犯対策ぐらい、寝ぼけてても行っている。…いや、もしかして忘れてた? その為に不法侵入を許してしまったのか?
そんな疑問を取り留めなく浮かべる。どうやらその考えは顔に出てしまったらしく、相手は笑を浮かべつつ、俺の問いに答えた。
「失礼ながら、自力で鍵を開けさせていただきました」
そう言い、彼は懐から何かを取り出す。知らぬ間に純白のクロスで飾られたテーブルの上に置かれたそれは、玄関の鍵だった…扉に付いてる方の。
呆気にとられている俺を他所に、執事さんはテーブルに置いたソレを指した後、
「このような稚拙な錠前など、多少の知識と腕前があれば、誰にでも開錠可能です。…ですので、勝手ながらで申し訳ありませんが、より信頼性の高いものに変えさせていただきました」
と言い、再び何かを取り出した。
彼は「新たに取り付けた錠前の鍵です」と言葉を添え、手にした封筒を俺に差し出す。受けとったそれは、何の変哲も無い角形6号の白い封筒。飾り気の無いそれには、あまり見ない家紋の封印がなされ、異様さを放っていた。
間違ってないんだけど、間違ってるよなぁ…コレって。
そう思いながら、封を解き中を確認すると、鍵が二つ納められていた。見慣れた凹凸のあるものではなく、差し込み部分表面に、いくつかの丸い凹みがある。
「横7列斜め10列のピンディンプルキーにございます。特注の品である為、バンピングはもちろんの事、その複雑な構造により、ピッキングそのものも難しくなっております」
いや、説明されてもわかりません。
「更にサムターン回し対策の為、扉そのものも変えさせていただきました。対熱、対衝撃に優れ、99mm如きでは傷ひとつ付く事の無い代物です」
それって凄いのか? …いや、凄いんだろうな、きっと。
「って、一般家庭にそんな過剰防衛的な超装甲の扉なんて要らないですよ!」
大体、玄関だけオーパーツにしたところで、あまり意味ないと思うんですが。
「近年、日本も治安がよろしくありませんので。それに…これはあくまで、手始めにございます」
俺の抗議に対し、彼はしれっと答える。
手始めって、人ん家を要塞化する気満々ですね? この人。
……もういい。とりあえずどうやって入ってきたかはわかった。
「……で、不法侵入までして、一体何の御用ですか?」
俺は気だるさを隠しもせず、逸脱しかけた会話を戻す。彼は俺の言葉に姿勢を正し…といっても、元から崩してなんかいなかったが…俺の問いかけにこう答えた。
「はっ。……実は我が主の命により、本日から天城様に使用人を就けさせていただく事となりましたので、そのご挨拶に参りました」
……はい?
「使用人って…?」
「身の回りの世話から、有事の際の護衛を兼ねた者です」
いや、いやいやいやいや!
「結構ですよ! 必要ありませんから!!」
いきなり言い渡された相手の申し出。俺は両手を勢いよく突き出し辞退する胸を彼に伝えた。だが、俺のそんな言い分など聞いてはいないように、彼は微動だにせず言葉を続ける。
「失礼ながら、天城様の身の上を調べさせていただきました」
彼の言葉に思わず眉毛が吊りあがってしまう。
……調べたって、一体何を何処まで?
「若い身空で天涯孤独の一人暮らし…さぞやご不便もございましょう?」
俺の意中を知ってか知らずか、彼はそう言葉を続けた。
調べたというのは、俺の家族構成の事か。
確かに、俺は今一人暮らしをしている。
両親は──『居ない』。
10歳の頃に母を失い、愛情表現が不器用な父と、親ひとり子ひとりで暮らしていたわけなのだが…その父も、一年前に出先で事故に遭い帰らぬ人となった。ひとり残されてしまった俺は、親戚筋を頼ってその庇護下に入るという手もあったが、それだとこの住み慣れた町を離れなければならないと知り、悩んだ末に当時も担任だった小野先生に相談を持ちかけた。
──そんなに嫌なら、俺の養子になる?
今でも、その時彼が言った言葉は忘れられない。
一大決議をそんな軽いノリで口走るんですから、あの人は。しかも、手続きが済んだ後は、最低限の事以外放任だし。『親権』の意味、理解してないんじゃないだろうか?
まぁそれに文句はないけど。寧ろ…そこまで俺は思いにふけ、そして目の前の執事さんに対してこう答えた。
「ございません。むしろ気楽気儘に過ごしてます」
はっきりとした拒絶の言葉を相手にぶつける。だが彼は俺の発言に、怯む事はなかった。
「ですが望む望まないに関らず、貴方様は『真柴』に深く関る事となった人物。万が一何かあってはなりません。ですので、ボディーガードとして人材を派遣する事は、こちらとしては当然の配慮…ご迷惑と思われますが、ご了承願います」
了承願えません!
『真柴に深く関る』って、好きで関ってるんじゃないし! 向こうから勝手に来た事だろ!?
……大体、
「拒否権はないんだろ? どうせ」
先程から彼は、意見を求めているわけでなく、決定事項を述べているだけといった感じだ。
「ご理解、感謝いたします」
礼儀正しく肯定しやがりましたよ…チクショウ。
思わずため息を吐く。
そんな俺の心情など他所に、彼は黙々と事務処理を続けた。
「それでは、ご紹介いたします」
そう一言述べた後、彼は先日のトイレの前で見せたように軽く指を弾く。それを合図に、ひとりの女性が部屋へと姿を現した。
歳は20代前半ぐらいだろう。栗色に染めたボブカット。綺麗な顔立ちで美しいというか、凛々しさのある切れ長の鋭い目をしている。着こなしている衣装は、いわゆるメイド服というやつだが、喫茶店とかの魅せる為の物ではなく、古典的な作業着で、またそれが実に様になり似合っていた。
ふと、彼女に見覚えを感じたので、俺は自分の記憶を遡ってみた。…俺の記憶が確かなら、あの着替えの時に言葉を交わしたメイドさんの筈だ。
「本日より、天城様のお世話をさせていただく事になりました、八雲絹絵と申します。…おキヌとお呼びください。どうぞよろしくお願いいたします」
礼儀正しく一礼し、彼女はそう名乗った。しかしまた古風な名前…しかも自分から古臭い呼び名を求めますか。
「エライまた…今時珍しい名前だな」
「逆に新鮮で愛らしいと思いませんか? 私はこの名前、気に入っていますから」
うっかり漏らした俺の言葉に、彼女は微笑みながら答えた。
かなりポジティブだ、この人。
というか、世話係兼護衛って女性なのかよ!
「……ちょっと、瀬葉須さん」
「何でございましょう? 天城様」
「いくらなんでも、年頃の男性に、女性の使用人をあてがうのはどうかと……」
そりゃまあ、そういったモノに疎遠な俺だが、曲がりなりにも男ですよ? それに世間体もありますし。
俺がそんな危惧を抱きうろたえていると、彼は口の端を吊り上げ一言で答えた。
「問題ございません」
そりゃどういう意味ですか?
間違えても無問題? それとも暗に「アンタ『根性なし(チキン)』だろ?」って言いたいのか?
殴ってもイイデスカ? もちろん肘で。
「それでは、私は失礼いたします。御用がございましたら、八雲を通し何なりとお申し付けください」
怒りに肩を震わせている俺に、彼は一言そう述べその場を去っていった。
……逃げたなチクセウ。
俺は肩を落とし、あからさまにため息を吐いた。
さて、どうしたものだろう。
俺は残された今の状況を見渡し、どう対処すべきかと考える。不意に八雲さんと目が合い…優しく微笑みを返してくれた彼女に、俺は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「突然の事で、困り果てたって感じですね?」
俺の気持ちを察してくれたのか、彼女はそう言い苦笑する。
「……えぇ、まぁ…その通りです」
「あまり深く考えなさらなくて結構ですよ。家政婦を無償で雇っている…それぐらいに思ってくだされば」
そう言い微笑む彼女は実に母性的で、俺の中の遠慮をガシガシと音を立てて削ぎ落としていった。
うん…まぁ、そういう事なら、別にいいか。
我ながら流され過ぎかとも思うが、この件に関しては、これ以上どうこう言うのを諦める事にした。
「それでは、朝食にいたしましょう。天城様…何かご要望はございますでしょうか?」
「いや、特に無いですよ。適当にパンでも」
「畏まりました」
彼女はそう言うと、手際よく朝食の用意を整えていく。…誰かと共に過ごす朝なんて久しぶりだな。特に女性が台所に立つ姿など、実に新鮮で仕方がなかった。
そうして出てきた朝食は、こちらが要望したとおり、適度に焼かれ狐色になったトーストと、綺麗に盛り飾られたサラダ。さして珍しい物でもないのだが、他人の手によって用意されたとういだけで、食べなれたそれも何時も以上に、食欲をそそるものとなっていた。
俺は早速用意されたトーストに、苺ジャムを塗り頬張る。その横で彼女は珈琲を注ぎながら、俺に問いかけてきた。
「ところで天城様。洗い物の事でお話があるのですが」
……………。
失念してました!
世間体とか間違い以前に、俺には問題があったんだった!!
多分、俺はとんでもない形相で顔を上げてしまった筈だ。しかし彼女は、先程とさして変わらぬ佇まいのまま、入れた珈琲を差し出しこう続けた。
「下着なのですが…いくら人目が気になるからとは言え、女性物の方を年中室内で陰干しなさっていては、臭いが付いて取れなくなってしまいます」
その言い回しは、明らかにこちらの事情を理解したものだった。
──…どうやら家族構成だけじゃなく、『あの事』も既に調査済みだったようだ。
「以後はわたくしが持ち帰り、自宅で洗濯させていただこうと思っているのですが……」
「……八雲さん」
「何でございましょう?」
「……男の一人暮らしなのに、女物の下着がある事に違和感は?」
「……天城様のお身体の事については、既に聞かされております」
俺の遠まわしな質問に、彼女は丁寧に答えてくれた。
「ご心配無用です。この事は、わたくしと瀬葉須様しか存じ上げておりません」
俺を安心させようとしているのだろう、彼女はそう言い微笑んだ。…どうやら俺に関する調査は、あの執事さんが直接、ひとりで行ったそうだ。『悪魔で執事』な方のように、何でもありだな…あの人。その為、不必要に情報が洩れる事も無く、またこの事は双子にも伝えていないらしい。
そこまで説明した彼女は、俺の顔を改めて見つめる。そして小さくため息を吐いた。
「……好みなのに…勿体無い」
今、不吉な何かが聞こえたような気がしたが、気のせいだよね?
とりあえず、家事については良きに計らえという事で収まり、俺は背筋に寒いものを感じつつ、いそいそと朝食を掻き込んだ。