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やぎのうた♪  作者: こゆき茜
起ノ壱 異な日常の幕開け
5/23

3

 教室に戻ると、そこには人影はなく、凄然(せいぜん)と静まり返っていた。

 それもその筈…今日は5・6限目は体育。皆既に更衣室へと移動したのだろう。俺達も急ごうと、それぞれ荷物を手に部屋を出る。

 更衣室へと向かう途中、不意に俺と吉村は立ち止まる。どうしたかと振り返る三人に、俺はどう切り出そうか思案した。

 ……訳あって、俺はいつも体育の着替えは、トイレで済ませている。その事は男子なら知るところだが、この三人…特にいさみさんは知りもしないだろう。理由を直接話せれば楽なのだろうが、これだけは絶対に、誰にも知られたくない秘密なので、語るなど論外だ。

 俺がどうするか悩んでると、吉村が助け舟を出してくれた。

「……詳しくは言えないが、こいつには酷い怪我の跡があってな。人に見られるのが嫌で、いつもそうしてるわけだ」

「そうなの? 知らなかった……」

 吉村の言葉に、相庭はそういい口を噤む。俺は口裏を合わそうとこう語った。

「女々しいとは思うけどね。あんまし酷くって、見られてドン引きされるのも嫌だからな。…ってわけで吉村。いつも済まないが、見張りよろしく♪」

「心得ているさ…さっさと行け」

 そう言って、男子トイレ前を陣取る吉村。その姿を横目に、トイレに入ろうとした時、俺をいさみさんが呼び止めた。

「お待ちください。それでは吉村さんの着替えが、間に合わないかもしれません」

 ……うん、確かにそうなんだよね。

「気にするな。いつもの事だ」

「ですが、それが元で吉村さんの立場に、何らかの支障を来たすのは、羊一さんも良くは思っていないのではありませんか? ただ見張りを立てるだけというのであれば、わたくしにお任せください」

 無愛想に語る吉村に対し、彼女はそう言葉を返す。確かにその通りなのだが…一体どうするつもりなのだろう?

瀬葉須(せばす)

「は、ここに……」

 彼女の呼び声に答え、前触れもなく背後に人影が現れる。俺達は思わず飛びのいてしまった。

「あ…アンタは?」

「お初にお目にかかります。わたくし、真柴家に御仕えする執事の…瀬葉須智安(ともやす)と申します」

 そう言い、初老を迎えた男性は、深々と俺に頭を下げる。そういえばこの人、見た事がある。確かリムジンの扉を開いてた…そうだ、あの人だ。

 いさみさんは、現れた執事に対し指示を出した。

「瀬葉須。羊一さんはこれより、こちらにて着替えをなさるそうです。…人払いを」

「はっ、お任せを」

 主の命を受けた彼は、軽く指を鳴らし合図を送る。それを待っていたかのように、メイド姿の女性が数人現れ…男子トイレの前を封鎖した。

 グハァッ! 目立つ…目立ち過ぎる!!

 けど確かに、これだと誰も入れねぇ。

「では皆様、時間も無い事ですし急ぎましょう。羊一さん、ごゆっくり……」

「いや、ゆっくりしてちゃ駄目だろ?」

 俺は彼女の言葉にそう返す。彼女も「そうですね」と小さく笑い、四人は急ぐようにその場を離れた。

「……すみません、それじゃよろしくお願いしておきます」

「お任せ下さい、天城様」

 メイドのひとりに俺がそう声をかけると、彼女はそう答えお辞儀する。…様付けされて照れくさい。

 いつまでもモタモタしているわけにはいかないので、俺はトイレの中へと向かう。途中、用を済ませた生徒が出ようとして、この有様に驚愕していたが、とりあえず気にしない事にした。

 俺は手近な個室に入ると、中から鍵をかける。便座の蓋を閉じそこに荷物を置くと、いそいそと上着を脱ぎ始めた。

 シャツのボタンに手をかける時、一瞬躊躇ってしまう。今更なのだが、俺はそれを直視するのに、未だ抵抗があるのだ。

 俺は小さく溜息を付き、そしてボタンを外していく。開かれたシャツから見える胸には、さらしが巻かれており…それは、男にはあるまじき膨らみを帯びていた。

 ……そうです、胸です。

 乳房です。

 オパーイです。

 ……………。

 先に言うぞ? 言っておくぞ!!

 俺は男だ! 正真正銘!!

 確かに女性の象徴たる胸を持っているが、俺は間違いなく男性だからな!!

 俺にこれがあるのは、ちょっとした病気なんだからな!

 ──そう、これは遺伝子異常によるものだ。

 生物の性を決める要因として、性染色体がどうこうと言う話は、聞いた事があるだろう?

 厳密にはもっと色々とあるのだが、細かい話は割愛する。

 簡単に説明して、人が生まれる時に、性染色体XYを保有する場合は男性、XXならば女性に、その肉体は形成され成長する。

 だが、俺は…何の因果か、染色体の構成が妙な事になっており、XXYというわけ分からん状態で生まれてしまったそうだ。

 幼い頃、医者に精密検査してもらった時に色々と教わったが、これは異数体…トリソミーの一種で、クラインフェルター症候群と呼ばれるものらしい。2000人にひとりは存在すると言われており、決して俺だけが特別というわけじゃない。

 そしてその症状に、男性的第二次性徴の欠如と、女性化乳房というものが確認されている。両方とも読んで字の通りだ。

 つまり俺は、生まれながらに『女性に近い容姿』を与えられてしまったという事。

 身長は言うほど伸びず、体格も華奢の一言に尽きる。喉に触れても、迫り出すようにある筈の喉仏は無く、声変わりも結局起こらなかった。その上、母親譲りのこの顔のせいで、スカートを穿いても誰も疑わないだろう…正直泣きたい。

 胸が発達しだしたのは、中学に入ってから…あの時は発狂しそうになった。医者の話では二次性徴期間中に起こる症状で、思春期が過ぎれば元に戻るという事だが…最近はそうわかっていても不安を隠せない。高校入学時はAAだったそれも、今じゃ84のBまで育ってしまった。

 ……本当に引っ込むんだろうな? コレ。

 性同一性障害(トランスジェンダー)の人間の気持ちがよく分かる。自傷行為にまでは発展していないが、こんな異物…存在する事が不快で仕方がない。

 俺は吐き気を催し…まぁトイレだから困りはしないのだが…だがそれをこらえ、(かぶり)を振る。

 授業中に緩まぬよう、さらしをシッカリ巻き直し、そして体育着にその身を包んだ。


   *


「ミッちゃん!」

「誰がミッちゃんだっ!!」


 ドコォッ!


 俺が校庭に姿を見せるや、勢いよく抱きつこうと、飛び出して来る真柴兄。俺は抱きつかれる前に、右肘で奴の顎を打ち上げた。

 上体を反らし目をむくと、奴はその場に崩れ去る…腹は駄目でも、さすがに顎ならダメージは通るようだ。

「お~、久々に見るな。天城の『殺人エルボーアッパー』」

「ってか死んだか? 大丈夫か~真柴兄~?」

 俺達の様子を見ていたクラスメート達が、口々にそう声をかける。何だかんだで、クラスには浸透しているようだ。

「……ふっ、いいモノを持っているではないか」

 ふと見下ろすと、奴はそう呟き、顎をさすりながら立ち上がる。

「もう復活した!?」

「アレを喰らってすぐに復活するとは…どんな生命力だよ」

「日頃より鍛えているからな。しかし今のはかなり効いたよ」

 そうにこやかに語る姿は、到底効いてるようには見えない。

 もう一発殴ってやろうかと構えたが、先生が来たので俺は拳を収めた。

 今日の授業内容は、女子が屋内でバレーボール、男子は持久走だった。

「かったりぃ!」

「ってか女子は体育館かよ」

「いさみさんの体操服姿…拝みたかったなぁ」

 不満をもらす級友たち。そんな彼らとは別に、俺は安堵の息を漏らしていた。

 正直、こういった競技の方がありがたい。

 体が触れ合う可能性のある競技は…秘密がばれてしまうんじゃないかと、気が気でないからな。

 軽い準備運動の後、俺たちはトラックをなぞるように走り出す。足並み揃え駆けていた集団も、三週目を過ぎた辺りにはまばらとなった。

 先頭を走るのは、クラスで一番を誇る運動神経の小枝原。そして彼と併走して走るのは…真柴兄だった。二人から大きく離され、数人が息も絶え絶えといった感じで追いかけている。何時もならもっと前を行っていてもおかしくない彼らだが、どうやら二人の走りに、自らのペースを乱されてしまったらしい。

 ……それにしても、あの体力バカの小枝原に、余裕で付いて行ける奴が居ようとは思わなかった。

 改めて見る。その引き締まった身体、流れるようなフォームは、乱れる事もなく力強い。躍動感のあるその走りは、見る者の心を捉えて離さない…そんな魅惑的なものを感じさせた。

 同性の俺でも、そう感じさせる程なんだから、女子が見たらどうなるだろう。まぁその予想は難くない。

 その上、午前中の授業で思い知らされたが、こいつ…いや、いさみさんもそうだ。この二人は、恐ろしいほどに頭ができる。

 数学では難しい公式を分かりやすく説明しながら解き、古文では例文の誤った解釈を正し、英語では完璧なヒアリングを披露し、先生達が舌を巻いていた。

 文武両道…天は与えるところには、二物も三物も与えているようだ。

「朋友…俺は世の不平を呪うわ……」

 俺は共に走る吉村に声をかける。

 もっとも、返事は返ってこない。息を切らし、何とか俺について来てるといった感じだ。

 ──ホント、こいつって体力ないよな。

 俺も体力的には、平均男性より下回っているが、彼はそれに輪をかけて低かった。

「……俺…は、頭…脳…労働……派…なん…だ」

 さよですか。

 どう解釈しても、負け惜しみにしか聞こえんよ。

 顔は平然としてるが、目はキョロキョロと所在無く、辺りを見てるしさ。

 ま、これ以上、無駄に体力を使わせるのも悪いから、俺も黙って走る事にしよう。

 そう考え、俺はただ走るという行動だけに集中した。


 結局、授業が終わる頃には、先頭集団に10週近く差をつけられてしまった。


   *


 HRもつつがなく終わり、放課後を迎える。

 教室には帰宅部組が数人と、既に多くの生徒は、その場を去っていた。

「……で、この人数はさすがに多いと思うんだけど」

 そう言い呆れる委員長。彼女の言い分ももっともだ。

 HRの後、委員長が真柴兄妹に「案内の続きを」と申し出たのが事の始まり。それを耳聡く聞いていた相庭が乱入、小枝原も面白そうだと加わる。

「天城~、お前もフィアンセたちの為に一肌脱ぐよなぁ?」

「ぬぐかぁぁぁっ!!」

 からかう小枝原にはエルボーを。その後、会話はグダグダになり…そしていつの間にか、俺と吉村も同行する事で話がまとまった。

 つまり計7人で、校内を回るという事。委員長じゃなくても、閉口したくなるのは致し方ない。

「そっかなぁ? みんなで回ったほうが絶対楽しいよ♪」

「そうですね。わたくしは異存ありません」

 はしゃぐ相庭の意見に同意を述べるいさみさん。僅か半日だが、かなり親睦を深めているようだ。二人の仲の良さが見て取れる。

「まぁ細かい事はいいんじゃね? それより岸辺、何処まわるんだ?」

「せっつかないでよ小枝原君。……まあいいわ。放課後なんだし、グラウンドや体育館、部室塔辺りを回ってみるのはどう?」

 彼女は小枝原の態度に溜息を吐き、自分の意見を述べる。比較的短時間で回れる校舎内は、既に昼休みに案内し終わっているのだろう。更にこの時間なら、運動部の見学もできるというわけか。

「そのスケジュールでこちらも依存はない」

「そうですね」

「……決まりのようだな。なら早く済ませてくれ」

 合意する双子に、吉村は気だるそうにそう呟いた。

 談笑を交しながら、俺達は目的地へと向かうべく歩き出す。部活動に励む生徒の声が聞こえてくるというのもあって、自然と会話はその事へとなった。

「それで、二人はどのクラブに入るの~?」

「そうですね、わたくしは薙刀…なければ剣道部にと考えております」

 以外だったが、いさみさんは運動部一択だったようだ。

 茶道部とか美術部とか、文科系の印象があったんだけどな。まぁ…袴姿のいさみさんも見てみたいとは思うが。

「天城、鼻の下が伸びてるぞ」

「べ、別にやましい事は考えてねぇよ!」

 吉村に指摘され、思わずあせってしまう。そんな俺の姿を、ニマニマと笑う小枝原と相庭…委員長は、小さく肩を竦めていた。

 まったく、こいつら俺を玩具にしやがって……。

 もっとも、このやり取りはいつもの事なので、俺もそう気にはしていない。

「まぁうちは薙刀部なんてないから、剣道部って事になるな。男女で違うが、俺も剣道部だし、もし何かあったら声かけてくれや」

 話を引き戻すように、小枝原はそう言い、いさみさんに笑いかけた。

「で、ユウちゃんはどこにするの?」

 いさみさんの志望を確認した相庭は、今度は真柴兄の回答を求める。

 というか…あんたスゲェよ。怖いもの知らず過ぎ。

「うむ…私か……」

 真柴兄の方は相庭の呼び方を、さほど気にはしていないようだ。だが、その言葉は意外に歯切れが悪い。

「相庭、あまり困らせるな。…同い年とは言え、彼は多忙な身の筈なのだからな」

 そんな彼に、助け舟を出したのは吉村だった。

 そうだった…彼は真柴グループの総裁だった。あまりの変態っぷりに、俺はその事を失念していた。

 今日半日だけでも、かなり殴ってたような気がするが…アレってまずいよな?

「お気遣いはありがたい。だが…この場にいる時ぐらいは、真柴勇、一個人として付き合ってもらいたい」

 少し寂しそうに笑みを浮かべ、彼はそう呟いた。そして、さらにこう言葉を続ける。

「まぁ…吉村殿の言うとおり、部活動にまで参加するのは無理だろう。だが、いさみに付き添い、見学をするのはかまわないだろう?」

「誰も帰れなんて言わねぇよ。言うぐらいなら、最初から案内なんかするか」

 俺はそう言うと、皆の先頭に立ち、足早にグラウンドへ向かった。その後姿を見ながらなのだろうか、

「フッ…惚れ直しそうだ」

「本当に……」

 という二人の声が聞こえ、思わず肩を落とした。

 俺を追いかける皆の足音を聞きながら、俺はグラウンドへ通じる通用口をくぐった。

 ……その時である。


 カンッ


 金属バットが放つ軽快な金属音と、飛来物が起こす空気との摩擦音が聞こえた。

 ──えっ?

 振り返る。するとそこには、白い物体が凄い勢いで、俺に向かって突進してきていた。

 ヤバイ──当たる!!

 俺は回避しようと、その身をかがめ目を瞑る。その上に、誰かが庇うように覆いかぶさった。

 え…えっえっ!? 何っ!?

 俺は何が起こったか分からずうろたえる。パシンと軽い音が響いたが、痛みなどは一切感じられない。

 俺は、恐る恐る目を開いて……、

「……えぇっ!?」

 今の自分の状況に混乱した。

 俺を庇うように抱きしめていたのは、いさみさん…それに、相庭に委員長の三人。そしてそれを守るように、小枝原と吉村、そして真柴兄が射線上に立つ。そしてその最前列には…あの執事さんをはじめ、黒服の男達が、ズラリと立ち並んでいた。

 執事さんはこちらの方に直り、深く頭を下げる。その左手には、白い硬球が握り締められていた。

「勇様、お怪我はごさいませんでしょうか?」

「大事無い…下がれ」

「はっ」

 彼は主に対しそう答え、一礼すると、


 バシュッ!


 元から居なかったかのように、その場を去っていった。

 ……………。

 ……消えた!?

 瞬きした瞬間には、もう既に執事さんも黒服も、跡形もねぇ!

 忍者? 忍者の末裔なのか!?

 それともこれが執事の必需スキルとでも言うのか!?

「さすが超VIP。とんでもなSP揃えてるんだねぇ」

 独特の脱力感のある言葉に、俺は我に返る。見ると校舎の窓から、気だるそうに上半身を乗り出した…小野先生の姿があった。

「もっとも、今は天城の方が羨ましく思うが」

「……ぇ?」

「美女三人に抱きつかれちゃってまぁ…男冥利に尽きるねぇ」

「わわわわっ!!」

 言われて今の状態を思い出す。俺は慌てて彼女達から離れた。

 狼狽する俺を、心配そうに見つめる相庭と委員長。

「大丈夫? 天城君」

「怪我ない~?」

「だ、大丈夫だって! ってかオーバーだよ。ボールが飛んできたぐらいで!!」

「それもそうだな♪ はっはっはっはっ!」

 俺の言葉にまったくだと、小枝原はうなずき笑い出す。その横で吉村は、ため息を吐き眼鏡を正した。

 そんな俺達の輪を、少しはなれた所で見つめる双子。彼らは俺達の様子を見つめ…そして同時に呟いた。

「「なるほど…な」」

 その言葉…それにどんな意味があったのか、今の俺には知る由も無かった。

 今思い返せば、その時既に俺の日常は、完全に失われていたのだろう。


 ──俺が、知らなかっただけで。

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