そこは見知らぬ場所だった。
大理石と思われる磨かれた床の広間に、お情け程度のロウソクの灯り。
それは役目を果たせてはおらず、辺りは薄暗く闇に包まれている。その為、周りの状況を確認するには難しかった。
──いや、それだけのせいじゃないかもしれない。
手近に見える柱の輪郭もハッキリしない──ただそこに、それがある。そういう認識だけで存在を確認しているといった感じだ。
──そうだ、これは記憶。
色あせ過ぎて容も定まらない、言葉は思い返せてもその声は再現できない…古過ぎる思い出を、瞼の裏に想い描く時の感覚──正しくそれだった。
だが、もう一度言おう。
そこは見知らぬ場所だと。
俺、天城羊一は生まれて17年、この様な場所に訪れた記憶など持ち合わせてはいない。
物心つく前に連れられたと言う話も聞かないし、そもそも俺の両親は、家族旅行など一度たりとも行わなかった。
ならば結論はひとつ──これは夢だな。
そう捉え辺りに意識をやれば、それが正解だと思わせる事が多々存在する。
陰湿な空気、地中海沿岸に残される神殿を思わせる建築様式、人の頭蓋骨を模したキャンドルなど、あまりにも捻りの無い…ゲームに出てきそうな悪魔の根城。
そう、ここは魔王の居城──謁見の間だ。
ここ数日、その手合いの物をずっと遊んでいたせいだろう。その情報が脳裏で整理され、擬似的に再現された…ただそれだけの事だ。
明晰夢という言葉を聞いた事がある…覚醒夢とも言ったか? どちらにしても文字通り。
──意識を持ったまま見る夢。
厳密に言えば違うらしいが、今はそんな事はどうでもいい。ただ今見ているコレが、現実ではないという事がわかればそれでよかった。
だって夢ならなんだってありだろ?
たとえ死に直面しようとも──それどころか死んだとしても、それはただの悪夢であって、物理的・肉体的には何の影響も無い。
何より脳って代物は、情報と体で得た経験がそろって初めて『実体験』として記憶する。
故にどれだけリアルな夢を見たとしても、それはただの情報であり、結実すべき体験が存在しない為、目覚めれば忘れるか希薄なものになってしまう。
だからこの夢がどのような物であろうとも、俺に害を与える事は無い…そうと分かれば、余裕のひとつも生まれてくるもので。
──一体、何が起こるんだろう?
そんな期待が首をもたげた。
考えがそこに到るまでに数分。
そして待つ事、その倍といったところか。
目の前に人影が現れる。
表現としての言葉ではなく、それはそのままの意味だった。
そこに人がいる──その認識だけが存在し、彼の全容は理解できない。
視覚的な情報が乏しすぎる…俺ってこんなに想像力が乏しかったのか?
せっかくの明晰夢だというのに、これじゃ十分に楽しめないなと深くため息をついた。
性別は分からないが、とりあえずその影を『彼』と呼ぶことにしよう。
彼は手にした刃物…おそらくグラディウスとかその手の類の、幅広の西洋剣の切っ先を俺に向けた。
そこで初めて俺は、自分が観客ではなく舞台に立つ役者のひとりである事に気づく。
だがそこまで。俺の想像力は、俺自身の今の姿すらまともに再現する事ができておらず、仰々しい格好をし、大層な椅子に座っているという情報だけを俺に与えた。
その僅かばかりの情報から、俺は自らに与えられた配役を連想してみる…おそらく、その予想で正解だろう。
彼は俺に向けて口を開いた。
「……ここまで来てしまった以上、覚悟はできている。だが、今一度…今一度だけ、問わせてくれ」
懇願。
そう思った。何故ならそれは声ではなく言葉として、耳ではなく脳裏に届いたから。
だから彼がどのような思いで、どのように語ったかは分からない。
だがその言葉が含むその思いは、確かにそれであると認識できた。
「殺し合う以外に、方法は無いのか? ──魔王」
それは搾り出すように言われたのかもしれない…痛々しく感じる。
……そうか。
俺、魔王ですか。
予想通りですね? と、心でか細く微笑む…だがそんな俺の思いとは別に、胸に小さな痛みを覚えた。
それを皮切りに、堰を切ったかのように溢れ出す想い。
──愛しく、切なく、そして…全てを諦めた失望感。
目の前の人物に対して、並ならぬ感情を抱きながら、決して報われぬ事に落胆し、全てに幕引きを求めている…そう、彼の手で。
その感情の濁流を受け止めながらも、ありきたりな悲劇ですねと客観を抱く自分。これで互いの性別が分かれば、場合によっては萌えるのに…とか思ったり。
我ながらバカだと、心の中で首を振る。が、それは心の内で留まらず、自らの首をも動かし……、
「……そう、か」
彼に、問いの答えとして伝わった。
彼は剣を構える。その姿に、迷いは感じられなかった。
対する俺は、立ち上がるのみ。
無防備に──戸惑う事も無く。
──なるほど、そうか。
つまり、殺されればいいんだな?
それが今の自分…魔王の望みであり、そういう筋書きの悲劇ってわけだ。
ならそのクライマックス、綺麗に飾ってもらいましょう。
俺の意思でこの結末を歪める事も、明晰夢であれば可能だろうけど、それは野暮だと感じ、ただ静かに物語の絶頂を待つ。
──静かだった。
ただ静かに、薄闇の中対峙する──時が止まったかのように。
もし本当にこの瞬間で時が止まっているのなら、これほど残酷な事は無いよな。
そう思う。
……タメはもういいから、チャッチャと済ませてくれないかなぁ?
とも思う。
不意に、自分の頬が緩む。俺の意とは異なる何かによって。
──微笑みを浮かべた。
そして頬を何かが伝ったと感じた刹那、その時は訪れた──。
*
目を開くと、そこは慣れ親しんだ己の部屋だった。
窓をさえぎるカーテンの隙間からは、柔らかな日差しが朝を迎えたと伝える。
まどろみながら…俺はふと、その頬を左手でなぞった。
涙がそこにあった。
その夢は…『実体験』のように、俺の記憶の中に残っていた。