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照り付ける陽は、中央を僅かに西へと傾き始めている。俺はそれを見て、昼をまだ済ませていない事を思い出した。
「店を出る前に、何か持って来ればよかった……」
鳴りそうになる腹を手で抑え、俺は小さく呟いた。空腹感って奴は何でこう、思い出した途端、自己主張激しくなるんだろう。
……ま、今更いっても仕方がないか。少しフラついてから、店に戻って何か食べよう。
そう考え、俺は波打際をのんびりと歩き続ける。身体を優しく撫でる潮風…俺はその新鮮な感覚を堪能した。
異性の物であるとはいえ、水着姿で外を出歩くなど、小学生以来になるだろうか。中学に上がってからは水泳の授業をサボってたし、高校にいたっては、授業そのものがない今の学校に入ったからな。
俺は辺りを見渡す…周りの人々は、俺にある程度興味を示しているものの、決して奇異の目を注いでいるわけではない。不幸中の幸いというか、この不自然な肉体を、今だけは気にせず人目に晒す事ができた。
その事に慣れに近い感覚を抱いたのだろう。自然と緊張とか憂鬱な気持ちが薄れてきて、逆に今を楽しもうという考えが浮かび上がってきた。
……そうだ。
俺はちょっとした悪戯を思いつき、自分の携帯を取り出す。吉村のアドレスを電話帳から引っ張り出すと、手早くこう文面を打ち込んだ。
『生きてるかニョ0?(^O^)/
俺は今、×ゲームで海をエンジョイちうだぜぃ!o(^-^o)(o^-^)o』
内容を確認した後、俺はできるかぎりの笑顔で自分のバストアップを撮り、それを添付して送信した。
……タカの奴、どんな反応するかな?
相手がどう返して来るか、期待に胸を膨らませ返事を待つ。だが一向にメールは返って来ず、俺はそれに不審を抱いた。
そして、そのまま待つ事数分。ようやく吉村からメールが返って来た。
『今、補習中。嫌味か』
うわ短けえ、電報かよ!
両手で数えれるだけの字数だし。「父、危篤。スグ帰レ」のノリですかい!
淡泊なその内容に、俺は苦笑いを浮かべる。まぁ、吉村らしいって言えはそうなのだが、せっかくの超レアピンナップを撮って贈ったのに、その反応はないよなとも思ったり。
しかし、日曜日の昼間に補習とは、小野先生も目茶苦茶だよな。期末の時の報復なんだろうけど、貴重な休日を潰してまで、嫌がらせを決行するとは…その熱意を、普段の授業で発揮してもらいたいものだ。そう考え、俺は今のメールが届くのに、間が空いたわけを理解する。恐らく再テストかなんかを受けていたんだろう。でなきゃ無駄に几帳面なあいつが、すぐ返事を返さないなんてないからな。
俺はそう自己完結し、携帯をしまおうとした。すると、携帯に新たなメールが着信する。誰からかと、俺は再び受信フォルダーを開いた。
新着メールの宛名には、小野先生の名が書かれており、件名の無いそれには、こうしたためられていた。
『通報しました。
というか吉村危篤。
いたいけなチェリーにヨロシイもの見せるから、見事には』
──…『は』って何ですか?
どうやら何らかのハプニングによって、書いてる途中で送信してしまったようだ。あまりにも中途半端過ぎて、気になる内容だな、コレ。
俺は早速先生に『もっとkwsk』と返信する。すると、今度は吉村からメールが届いた。
『何でもない。聞くな』
……何かあったと自白してるようなものだぞ、朋友。
だが、何かあったとしても、これ以上メールで確認する事はできそうになかった。恐らく先生も口封じされた事だろうし…まぁそれについては、全く何とも思わないから別にいいが。むしろモットヤレ。
とりあえず、吉村をからかって遊ぶのはこの辺にしよう。それよりも、今俺の前に広がる海を堪能しなきゃ損だしな。
俺は携帯を防水用のケースにしまい込み、腕を振り上げ背筋を伸ばす。そして軽く柔軟体操を始めた。
泳ぐのは小学生以来だからな。溺れないとは思うが、ちゃんと身体を解しておかないとね。
そして一通り準備を調え、さあ行くぞと構えた時…俺の視界に、異様な光景が飛び込んできた。
……何だ? アレ。
遥か先の海岸に、漫画の演出のような砂埃が立ち上っている。お決まりの擬音も響いているし、しかもそれらは段々とこちらの方に近づいていた。
「……何か…嫌0な予感が…」
俺はそう呟き身じろぐ。眼前まで近づいて来たそれを見た瞬間、俺は顔面蒼白となった。
このふざけた現象…砂煙を立ち上らせて現れたのは、何と剣道着姿の小枝原だったのだ。
奴は竹刀を左手に逆手で持ち、腰には体育祭の競技に使われるような、太い綱を括り付けている。その先端は後方へ、まるでさびきの仕掛けのように枝分かれしていた。そして、それらの先に吊り下げられているのは、いくつもの車のタイヤだった。
……コレ引きずってこの距離を走ってきたのか?
しかも、俺が普通に走るのと大差ないスピードで。一体どんな脚力してるんだお前は。そしてその姿で平然としてられる、貴様の神経に脱帽ですよ、俺は。
心中で色々と突っ込みを入れつつ、俺は赤の他人を装い踵を返す。
……関わりたくないですから。
目立つし、コレと同列と思われたくないし、何より今の姿を知人に知られたくはないし。
だが奴は、周りの野次馬の中から、目敏く俺を見つけ声をかけてきた。
「よぉっ! 天城じゃないか。奇遇だな!!」
イィヤアァァ────ッ!
気さくな小枝原とは裏腹に、俺は絶叫を上げそうになる。
何で俺って気づきやがるかな? 見た目の性別違うだろ! 他人の空似と思えよ!!
そう思いながら、俺は素知らぬふりをして歩きだす。
俺、一未だもん。お前とは全く面識無いんだもん。
俺は自分にそう言い聞かせる。冷静に、迅速に、この場から離れる為に。だが、小枝原の次の一言に、俺は思わず反応してしまった。
「生で見ると中々じゃないか0。てか、ついに女装に目覚めたか?」
バキャッ!
「歯ぁ食いしばれ」
「……ベタ過ぎる事をやられるとは…思わなかった…よ」
俺の踵落しをまともに受け、奴は地面にはいつくばった。
人間、言っていい事と悪い事がある。
口で言ってもわからないというのは、日頃の付き合いで嫌という程わかっているから、とりあえず身体に思い知らせてやった。
……というか、ここ最近、俺の身体能力上がってきてね?
いつぞやの真柴兄への跳び蹴りにしろ、店での乱闘にしろ、今の踵落しにしろ…以前の俺では出来そうにない芸当を、思い通りにこなせている。それに対して戸惑いを抱きつつも、技が綺麗に決まる度に、快感を覚えていたりするのだが……
っと、話がズレた。この思考が迷走してしまう癖、直さないとな。
俺は自分にそう言い聞かせ、すぐその場にしゃがみ込む。俺の足元で返事がない…ただの屍のような小枝原の顔を覗き込み、俺はこう問い掛けた。
「反応しちまった以上、シラを切るなんて出来ないか…お前、よく俺だって気がついたな」
すると奴は首だけを何とか俺の方に向け、
「まぁ…な。お前がその特殊メイクで海に来てるのは、クラス全員が知ってる事だし」
と、色々と疑問の残る返事を返した。
特殊メイク? クラス全員が知ってる?
「……小枝原、その辺もう少し詳しく」
一体何処から情報がもれ、どう伝わっているのか。それを確認する為、俺は小枝原に説明を求めた。すると奴はいつものように笑顔を浮かべ、懐から携帯を取り出しこう言った。
「センセからメールが届いたんだよ。お前が偽乳付けて海の家でバイトしてるって」
そういって見せられたメールには、簡単な詳細と、俺が働く姿を納めた画像が添付されていた。その中には、先程ふて腐れて座り込んだものも混じっている。この画像が先生の手にあるという事は、八雲さんもグルか…あぁそうですか。
──…帰ったら、二人ともシメる☆
「……うわぁ0、スゲェ真っ黒いエンジェルスマイル」
「五月蝿ぇよ。天使とか呼ぶな」
俺の表情に引く小枝原に、俺はそう言って軽く小突いた。
しかし、特殊メイクとはまた、根も葉も無い嘘を引っ張り出してきたものだ。
改めて小枝原から取り上げた携帯を覗き込む。そこには、
『真柴家のメイドの手によって、ハリウッドばりの特殊メイクで変身を遂げた、我が校隠れアイドル! 魅惑の水着姿!!』
などと安い煽り文句が書かれていた。
隠れアイドル? 俺がぁ?
冗談は休み休みにしてくれ。
でも、周りがそう思っているのなら…もちろんアイドルどうこうじゃなく、完全な女装で、この胸も偽物だと思っているなら、不本意ではあるにしろ、よかったと言えなくない。俺の秘密がバレたわけではないのだから。
俺は安堵の息を漏らした。
俺がそうこうしている内に、いつの間にか回復した小枝原は、立ち上がり道着に付いた砂を払っていた。その事に気付いた俺は、立ち上がり相手と向かい合う。すると奴は俺の姿を上から下へと値踏みするように見た後、満面の笑みでこう言った。
「いやそれにしても…見事に化けたもんだな。けど、どうせ偽乳つけるなら、バーンと巨乳にすればよか……」
バキャッ!
「歯ぁ食いしばれ」
「……だから前もってと」
再び脳天に踵を受け、奴は地面に崩れ去る。俺は両腰に手をやリ奴を見下ろした。
「とりあえず小枝原、そこに正座しろ、正座!」
俺がそう言って睨みつけると、奴はいそいそと言われたとおりにその場に座る。俺はそれを確認した後、更にこう言葉を続けた。
「小枝原…お前は間違っている。胸が大きけりゃどうとか、そういったセクハラな発言はどうかと思うぞ?」
人の身体的特徴を示唆して笑うような行いは、看過できる事じゃない。それが友人と思っている相手ならば、尚の事だ。
……それに、だ。
「ただでかければいいってもんじゃない…その人の身長スタイルに見合う物であってこそ、よりその魅力が発揮されるものだろう!?」
ぐっと拳を握り締め、俺は迷いなくそう言い放つ。
世の中、何かしら基準とされる物がある。ここで言うならカップ数だろう。だがそのような物で、物の本質は測れないだろう? 否、測れないのだ!!
「『大は小を兼ねる』なんて当てはまらない! 『小さくていいのは女性の胸だけ』なんていうのも問題外! 全てのバランスが整えられてこそのモノなのだ!」
俺はそう力説する。すると小枝原は白けた顔で、俺にこう問いかけた。
「……って事は、お前さんロリ巨乳とかは?」
「ベネ!」
「いいのかよ!」
「それもまたテンプレ化された属性ですよ? 虚乳、寂乳もまた然り! まぁつまり、何が言いたいかというと……」
俺はそこで一呼吸間を入れ、そして力強くこう言い放った。
「女性の胸こそ正義!」
「この相変わらずのオッパイ魔人め」
俺の有様に、奴はそう言い笑い出した。
笑うなよ、みんなが見てる…ってうわ! ホントに注目集めちまってる! しまった、調子に乗りすぎた!!
俺はひとつ咳払いをつき、平静さを取り繕う。すると小枝原は、俺に向かってこう言ってきた。
「そんな待望の胸がそこにあるんだがら、ジックリ堪能したりはしたのか~?」
うん、実に年相応の青年らしい質問だ。
「するか! 自分にあっても嬉しくはないわい!!」
ニヤける小枝原に対し、俺はそう言い膨れてみせる。
第一、これは偽物じゃないから…神経通った本物だから、揉まれた感触の方が強すぎて、手触りを堪能するなんて全然無理だから。俺の中のアニムスは全然補完されないわけよ。わかる?
とまぁ、それを口にして言えるわけもなく、俺は不満を顔に出して相手を睨む事しかできないわけで。この話題はこの辺で切り上げた方がいいと考えた俺は、ふとした疑問を小枝原に投げかけた。
「……で、お前は何でここに? まさかその恰好で、俺を冷やかしに来たわけじゃないんだろ?」
俺がそう聞くと奴は立ち上がり、
「あぁ! 剣道部の合宿で来てるんだよ。因みに今は部員総出でマラソン中な!!」
と、その並びの良い白い歯を見せた。
「何たって一週間も学校休みだからな! これはもう、特訓しかあるまい!」
「この相変わらずの脳筋め」
今度は俺がそう言い笑う番だった。だが奴はそんな事はお構い無しに言葉を続ける。
「それに今回は、女子部に期待のホープが加わったからな! 今年は女子の方もいい記録が残せそうで、楽しみで仕方ないぜ!」
「それっていさみさんの事か?」
小枝原の言葉に、俺はそんな疑問を口にした。
確か転校初日に、そんな話をしていたような記憶がある。それが間違っていなければ、たぶん俺の予想で間違いない筈だ。
俺のその問いに、奴は肯定を返す。それを聞いた俺は、思わずこう呟いた。
「けど俺ら三年だから、部活は夏休みで引退の筈じゃ…って、そんな顔してこっち見るな」
驚愕の表情を浮かべる小枝原に、俺は後退りながらそう言う。しばらく固まっていた奴だが、すぐに何時もの表情に戻ると、
「はっはっはっ! まぁそれはそれでいいか!!」
と馬鹿笑いをしだした。
ホント、幸せな頭してるよ。むしろシワがないかもしれないが。
そんな失礼な事を考えてる事も知らず、奴は愉快そうに笑い続ける。だが何か思い出したような表情を一瞬浮かべ、奴は俺に向かってこう言った。
「っと、そろそろ振り切ってきた部員達が追いついてくるだろうし、俺はそろそろ行くとするわ」
「げっ、そうなのか? それじゃ俺もすぐ退散するよ」
彼の言葉に、俺もそう言いこの場を離れる事にした。
「じゃ~な、小枝原。特訓とか言って、あんまり後輩に無理させるなよ?」
「はっはっはっ、わかってるって。それより後で、バイト先に飯食いに行くから、奢ってくれ」
「だが断る」
そんな軽口を交し、俺は小枝原と別れた。
……あ、泳ごうとしてたのに忘れてた。
まぁいい、場所を変えてからにしよう。
そう思いながら、俺は人気のない方へと歩いていく。何時しか喧騒からかなり離れた岩場へと辿り着いていた。
ここならば寛ぐ事も出来るだろう。
そう思いながら、俺は日陰を求めて辺りを見回す。…そこで、思わぬ人物に遭遇してしまった。
この、誰も居ないと思っていた岩場に佇んでいたのは…ジャージ姿に身を包んだいさみさんだった。
相手も俺に気付いたらしい。驚いた表情のまま、じっと俺の姿を見つめていた。
……不覚! 小枝原の言葉から、彼女がここに来ている可能性に気付けそうなものだっていうのに!
いや、実際はそんな事ないし、例えそうとわかっても、このような邂逅を迎えるなんてありえないのだけれど、動転していた俺は、そんな無意味な思考でいっぱいになる。そんな俺の顔を覗き込みながら、彼女は静かに問いかけてきた。
「……ま…羊一さん?」
違います!
と、否定の言葉が頭に浮かぶも、それが喉まで届かず、俺は口どもり後退る。しかし彼女は顔を伏せ、ゆっくりと…しかし力強く、俺の方へと歩み寄ってきた。
「え…あ…んと……これは……」
我ながら情けない、歯切れの悪い口調で言い訳を探す。だが俺がそうこうしている内に、彼女は俺の目の前に迫ってきた。
彼女の細い腕が伸び、俺の両肩を捉える。それに一瞬ビクリと反応し、俺は身を強張らせた。
恐る恐る、俺は彼女の顔を覗き込む。だがその瞬間、上げられた彼女の顔を見て、俺は思わず身じろいだ。
「……可愛い」
目をらんらんとさせそう呟く彼女の顔は、到底正常とは言いがたいもので。
「良い、凄く良い! さすが私の嫁! 写真で見るより断然に! これで女性じゃないなんて反則です! むしろ女の子万歳!!」
「いや…ちょ…落ち着いて……」
「任せてください羊一さん。望むのならば真柴の名において、貴女を身も心も完璧な淑女にして差し上げますから! むしろしましょう! 今すぐに!!」
「落ちつけぇ! キャラ安定してないよアンタ! 大体俺を女にしたら、色々問題になるでしょうが!!」
俺の事が好きで押しかけてきたって事になってたんじゃなかったのか!?
それを女にしてどうするよ! それともそういう趣味の人なのか!?
俺がそんな事を思いつつ彼女を制止すると、相手はきょとんとして俺の顔を覗き込む。そして爽やかに微笑みこう言った。
「性別など、かつての障害に比べたら些細な事…私達の愛の妨げにはなりませんわ♪」
「アンタも言うか! それ言うか!!」
何時ぞや兄の方が言ったセリフ、一字一句違わず返された。
確かその時、その場に居なかった筈だよね? 思考そのものも瓜二つだったんですか?
「いやもう、落ち着いて! 帰ってきてくださいいさみさん!!」
「さぁ行きましょう! 巡るめく二人の愛の巣へと……」
「人の話を、聞けぇぇぇぇぇっ!!」
「あいたっ!」
俺は絶叫を上げ、思わず彼女の額に手刀を叩き込む。かなり痛かったのか、彼女は俺の拘束を解き、額を押さえ蹲った。
しまった…女性に手を上げてしまうなんて!
俺は慌てて座り込み、彼女に声をかけた。
「ごめん! 大丈夫…痛くない?」
「へっ平気です…ふふっ♪」
……何でそこで微笑むのか、理解に苦しむんですが。
何故か嬉しそうにしている彼女に、俺は怪訝な表情を浮かべる。すると彼女は立ち上がり、そして静かにこう語った。
「……懐かしくって。前世ではよく、私が莫迦な事をする度に、こうやって叩かれていたな…と」
──…『前世』…ねぇ。
出会った当初も、今も、こうやって時々顔を表すその言葉。
一体その前世とはどんなもので、どれ程彼女達の心を占めるものなのだろう。
さすがにこう何度と話題に上がってきては、気にならない方が無理だった。
……それに、俺自身が見続けてる夢の事もある。
ただの偶然なのか、それ以外の理由なのか…確かめたいという気持ちもあったのだろう。
だから…俺は……
「……少し、聞かせてもらってもいいかな? 二人の事…前世の事とか」
決して開かれる筈のない前世の扉に、その手を掛けてしまった。