10
七月も中頃を過ぎれば、その陽射しも真夏日のものとなり、暑さもひとしおといった感じだ。こと今日のような晴天では、立っているだけで汗が止め処なく流れ、人々の体力を奪ってゆくだろう。
だが、そんな炎天下だからこそ、賑わいを見せる場所も幾つか存在する。この市にある小さな海水浴場も、そんな中のひとつだ。
浜辺を闊歩する人々の多くは、若者達が占めている。期末試験を終えた休日という事もあって、誰もが開放感に満ちた笑顔を浮かべていた。
そんな中、浜辺の一角に設けられた、今時珍しい古びた海の家で、行楽に洒落込む同世代を横目に、汗水を流し接客する人物がいた。
背は160半ばと高過ぎず低過ぎず、しかし日本人離れしたスレンダー体型。きめ細かな白い肌を、レースをあしらったチューブトップビキニで包み、腰には趣向を合わせた同色のパレオを巻いている。その姿は可憐でありながら、異性を引き付けるに十分な性的魅力を発揮していた。更にその顔立ちが、世間並みを遥に上回るものであるならば、心奪われるなという方が酷と言うものだろう。短く刈られた襟足に、ヘアピンで無造作に止められた、長めの前髪から覗く面は、現代人の美意識において、正しく『美少女』と銘打つに相応しいものであった。
客や遠巻きに見つめる男達に視姦され、少女は内心で辟易する。だが一々それに反応していては、疲れるばかりと考えたのか、少女は男達の視線に気を遣らず、与えられた仕事を事務的にこなしていた。
さて、このような場所である。世間でよく言う『悪い虫』が湧かない筈がなく、それらが少女を放置する等ないだろう。案の定、愚か者がひとり、身の程知らずにも声をかけてきた。
「ねぇ君、可愛いね。もしよければ一緒に遊ばない?」
軽薄の一言に尽きる言葉と笑顔。余程自分に自信があるのか、何処となく横柄な態度だ。だがそんな相手でも、店の席に座っている以上、まずは客として対応せねばならない。
少女は心中でため息を吐き、
「……いえ、今仕事中ですから。それよりご注文は何にいたしましょう?」
と、伝票を片手に問いかけた。
すると男は一瞬、怪訝な表情を浮かべ少女の顔を覗き込む。だがすぐさま表情を和らげ、相手に対しこう注文を述べた。
「そうだな…なら、君を『お持ち帰り』しちゃおっかな♪」
──…鬱陶しい。
主に少女の心中なのだが、恐らくその場に居た全員がそう思ったであろう。他の客の様子にそう判断した少女は、目の前の男を『排除すべき害獣』と判断し行動に移した。
「お客様、冷やかしでしたら、お引取り願います」
やんわりと、少女は男に退散するよう言い渡す。だが、それで引き下がるくらいに周りが見えている相手ならば、先程のような白痴な戯言を言う筈も無く、
「そうツンツンしないで、仲良くしようよ♪」
と言って、踵を返し立ち去ろうとする少女の腕を取り引き止めた。
「ほら、横に座って座って!」
相席をせがむ男に、腸が煮えくり返る思いを何とか抑え、少女は店奥に控える人物の方に視線を送る。奥にある鉄板で焼きソバを掻き回していた壮齢の女性は、それを一瞥した後、手にした鉄ベラで己の喉を掻き切る真似をした。
(殺っちゃいな…YO♪)
(OK、ボス♪)
軽いジェスチャーとアイコンタクトにより、少女は此処の責任者であろう女性から、実力行使の命を受ける。捉えられたのとは逆の手を強く握り締めると、少女は勢いよくその腕を振り上げた。
「汚い手で触るなっ! この下衆が!!」
少女の肘が見事男の顎を捉える。搗ち上げられ無防備となった腹へ、少女は更に蹴りを打ち込み、男を店外へと排除した。
その途端、周りから少女に向けて、一斉に拍手が送られる。それに対し少女は当惑しつつ、愛想笑いを振りまいた。
そして、少女はため息をひとつ。
何故自分は、こんな目にあわなければならないのだろうか。
……もちろん、少女はその理由を聞かされている。しかし、それは実に理不尽なものであり、納得できるものでなかった。
そしていつの間にか、このような意にそぐわぬ状況に追い込まれてしまう。逃れる事も叶わず、従うしかない少女にできる事といえば、他所事のように己を客観視し、現実逃避するぐらいだった──
……………。
──…もういいや。色々疲れたヨ。
現実逃避──終了。
*
ま、そんなわけで……
夏です!
海ですっ!
サマーバケーション…は、まだもうちょっと先だけど。
今日は期末テスト明けの日曜日。
憎たらしいほど快晴で、正に行楽日和なわけなのだが…そんな貴重な休日を、俺は女物のビキニ姿で働かされていた。
……何を言っているのかわからないかも知れないが、恐ろしいものの片鱗を味わったというか…とりあえず、「女装に目覚めたのか?」とか思った奴、歯ぁ喰いしばれ。
とにかくだ。
気持ちを整理する意味も含めて、何故こうなったのか、順を置いて説明しよう。
事の起こりは、つい先日行われた『我家の鍵争奪戦』。
あの騒動で、俺的に最悪な事態は免れたものの、実はひとつだけ、回避し損ねた問題があったのだ。
そう、先生が俺へと課したボーダーラインだ。
物理のテストで70点以上を取れというその課題、しかし俺は53点という、散々な結果を出してしまった。
故に『罰ゲーム』が決行されてしまう。
「高島先生の親戚で、仕事の手伝いを探している人が居るから、お前さん手伝ってこい」
テストが返却された日の放課後、職員室に呼び出された俺は、先生の口からそう言い渡される。
「……つまり、担任公認でバイトしていいって事ですか?」
「まぁそういう事だな。夏休みになれば、遊びに行くなりで小遣い要るだろ? ちゃんと手当ても出るらしいから、悪い話じゃないと思うが?」
だらしなく椅子にもたれながら、彼はそう俺に問いかける。
確かに、先生の言うとおりだ。高校最後の夏、受験勉強だけで潰すつもりはないし、出歩くならば元手になる物はやっぱり欲しい。
「そういう事なら…こちらも願ったりです」
俺はあまり深く考えず、その話を素直に承諾した。
……しかし、今はその軽率さに後悔が絶えません。
まったく、何で──
「何でこんな恰好をして、ウエイトレス紛いな事しなきゃなんないんだよ!」
俺は手に持つトレイを地面に叩きつけ、溜まりに溜まった鬱憤を吐き出した。
正直、自分で言うのもなんだが、俺の外見は可愛らしい。
哀しくなるほど女性体型だし、雑誌の読者モデルぐらいなら、十分やっていけるんじゃないだろうかと思う時もある。
──…だが、だがだ!
思うだけで実行に移したいなどとは到底思わん!
こんなの所で晒し者にされるだなんて以っての外だい!!
これ見よがしな野郎どもの視線は、ネチネチしてて気分悪いし、頭の足りないナンパ男に言い寄られたのは、今ので3回目だぞ? 3回目!!
「もうヤだぁ…お家に帰りたい……」
俺は膝を抱え座り込み、目尻に涙を溜め呟いた。
ふと顔を上げて見ると、見覚えのある人物が、嬉しそうにビデオカメラを回しているのを発見した。
「その憂いのある横顔も、素敵ですわ…天城様♪」
そう言い己の頬に手を当て、八雲さんは恍惚とした表情を浮かべる。その恰好はメイド服ではなく、白に太い赤のラインを斜めに入れたデザインの競泳水着だった。鍛え込まれているらしく、引き締まり綺麗なプロポーションで、それゆえ着ている水着も実に様になってる。
しかしね…そんな綺麗な女性が、鼻血流しながらカメラのファインダー越しに、俺を視姦する様は如何なものかと。
「八雲さん、いい加減にしないと…ぶつよ?」
「そう言われましても、わたくしが選んだ水着を着てくださったそのお姿、末代まで残さねば、死んでも死に切れませんわ♪」
そう言って彼女は、今度はデジカメと携帯の二つを取り出し、両手で器用に写真を撮り始める。よく見れば彼女を筆頭に、カメラを構える男達が集まっており…その有様に、俺は力無くうなだれた。
天国のお母さん…世の中、間違っています。
俺は深々とため息を吐いた。
「ほらほらほら、ため息ばかり吐いてちゃ、幸せ逃げちゃうわよ~?」
俺がやる気無く座り込んでいると、店の奥で仕込みを行っていた女性が、快闊に笑い俺の傍へと歩いて来る。すると集まり始めていたカメコどもは、すぐさまレンズを彼女へと向けた。
……うん、もうね…何て言おう。
一言で言い表すなら、『核弾頭』だな。
俺は彼女の豊満な果実に目を奪われつつ、そんな単語を思い浮かべた。
この女性の名は真宮菖さん。年齢不詳の自称『永遠の18歳』。
どこぞの声優ですかと突っ込みを入れたくなるが、その騙りを差し引いても、ここ最近出会う大人の中では、至極まともで常識的な人物だ。
長いブラウンの髪を襟足で団子にし、面積の少ない細いふちなし眼鏡をかけている。切れ長の目をした非常に端正な顔立ちで、見た目から恐らく三十路に入ったかぐらいだろう。小野先生や高島先生と、いうほど歳は離れていないように思う。服装は生地の少ない赤のハイレグビキニの上に、白地に放射能標識がプリントされたTシャツを纏っており、彼女の熟れた肉体を惜し気もなく晒していた。
真宮さんは高島先生の親戚で、先生の叔母に当たるらしい。彼女はこの店の責任者としてここに居るが、本来はこのような接客業ではなく、ただのOLなのだそうだ。この店も彼女の上司の所有物で、『厳選された結果』彼女が代理店長を任されたとのこと。
まぁ彼女の身の上はこれくらいでいいかな?
俺自身も、この人の事はあまり知らないし。
さて、話を戻すとしよう。
俺の元へ来た真宮さんは、子供をあやすように、俺の頭を撫で回した。
「見られるのもお仕事の内よ? そんな膨れてないで、スマイルスマイル♪」
「……晒し者にされて、喜べだなんて無理です」
「そんなもったいない事いっちゃって…一未ちゃんこんなに可愛らしいんだから、もっと愛想良くしないとモテないわよ?」
「……大きなお世話です」
大体、野郎にモテたくはないです!
そう心中をさらけ出したい気持ちでいっぱいだが、そうはいかなかったり。
今の会話で察しがつくかもしれないが、真宮さんは俺が男だというのを聞かされていないのだ。
……そう、こともあろうに小野先生は、彼女に俺の事を『親戚の娘』の『天城一未』だと紹介していたのだ。
なるほど…確かに罰ゲームだよ。俺に女装させて、大衆に晒すだなんてな。教師の癖になんて悪質な!
大体、『一未』って何だよ! 羊一って本名を、逆さにして干支の未に変えただけって、どんだけ単純なんだ!
……って『ミッちゃん』のあだ名の由来って、これかぁっ!!
いや、今それはどうでもいい。今問題にすべきは…悲しい事に、当日顔合わせした際にも男だとばれず、その事を訂正する間もなく最前線に出された事だ!
そりゃもう大変だったんだぞ!?
相手は自分を女の子と思ってるから、会話が全然かみ合わないし、「接客は水着姿でね♪」とか言われて更衣室に放り込まれるし、そもそも女物の水着なんて、持ってきてるわけないと途方に暮れる所へ、何時ぞやの水着と体型補正用ショーツを手にした八雲さんが乱入するし、終いには30分掛けて無駄毛処理させられるし……
俺…ただでさえ体毛薄いってのに、もうお肌つるっつるです。泣きたいです。
大体このサポーター、どういう造りなんだ? 本当に下半身、目立たなくなってるんだけど。
八雲さんの話だと、普通にネット通販で手に入る代物らしいけど、こんな物誰が買うんだ?
いや、買った人間が今目の前にいるけどさ。
……え? そんな無駄な愚痴はいいから、今箇条書きした内容を、もっと詳しく?
だが断る! 俺の精神衛生の為にも!!
「……一未ちゃん、大丈夫? これ何本かわかるかしら…?」
俺が黙り込み遠い目をしていると、真宮さんが不安そうな声をかけつつ、俺の目の前でVサインをちらつかせる。俺は能面を貼り付けたまま、首だけを彼女の方に向け、
「大丈夫です。ちょっと脳内クソ野郎に状況説明してただけですから」
と、説明した。
「何がそんなに嫌なのかは理解できないけど、現実逃避せずにいい加減帰ってきなさい」
「ソウデスネ~」
肩を落とし窘める真宮さんに、俺は一言だけそう答える。今自分がどんな顔か、鏡を見なくても理解できた。きっと死んだ魚のような目だ。
そんな俺の有様をマジマジと見ていた真宮さんは、呆れたようにため息を吐き、そしてこう声をかけた。
「……まぁいいわ。朝からずっと働き詰めだし、少し休憩してらっしゃい」
「そうですね…そうさせていただきます」
彼女の申し出を、俺は素直に受ける事にした。どこか落ち着ける場所で、少し頭を冷やしたかったからだ。
「うんうん、素直でよろしい♪」
彼女はそう言うと、その視線を俺から八雲さんの方に向ける。
「それじゃ、一未ちゃんの留守の間は、貴女に働いてもらいましょうか♪」
「えぇぇぇっ! わたくしがですか!?」
「うちの店員、山ほど写真撮ってたでしょ? 別に金を寄越せとは言わないけど、もし手伝わなければ、物理的にデータを削除するわよ?」
「て、手伝わせていただきます、菖お姉さま……」
にこやかに語る真宮さんに、八雲さんは冷や汗を流し頭を下げた。
「ま、そんなわけでこっちは大丈夫だから、ゆっくりしてらっしゃい♪」
……そういう事ならば、お言葉に甘えて。
俺は彼女に頭を下げ、まだまだ日差しのきつい浜辺へと歩き出した。