9
──翌朝。
結局あの後、俺は一睡も出来ませんでした。
あぁ…頭がフラフラする。
確認したわけじゃなけれど、きっと目に隈とかできちゃってて、その姿は窶れ果てているのだろう。間違いない。
こうなったのも、昨夜の出来事が原因だ。あの自分で行った不可解な行動のせいで、いくら眠ろうと横になっても寝付けやしない。
大体どうかしている…よりによって一番厄介な相手に、あんなマネをやらかすなんて。
真柴兄を抱き竦め、甘えるみたいに泣きじゃくる…なん…て……!!
俺はその時の情景を思い出し、茹でられたように紅潮する。あまりの恥ずかしさに、思わず布団を頭から被った。
──…イカン、どうしよう…思考が完全に『乙女』入ってる。
こんなの俺じゃない! 俺ってもっと淡白で図々しいキャラだった筈だろ!?
俺は自分にそう言い聞かせながら、ゆっくりと呼吸を整える。時間を掛け何度も行う内に次第に昂ぶりも治まり、冷静な判断力も戻ってきた。
思考が正常化するにつれ、俺は抱き付いた後の行動について考察する。
……派手に蹴り飛ばして気絶させてしまったが、よくよく考えれば、ただ『男』が『男』の胸に触れただけだ。なのにあの仕打ちは、酷かったのではないだろうか?
いやでもあいつ、思いっきり揉みやがったし。
他人の胸に軽々しく触れた報いだ、俺は悪くない。
そう主張する脳内検事『俺』。だがそれに対し、弁護人『俺』は「異議あり!!」を行使した。
被告人『真柴兄』は、ただ引き止めようとしただけであって、触れたのは不可抗力であり、俺の行為は過剰防衛に値する!
そうかも…しれない…けど……
じわりじわりと自責の念が頭をもたげてくる。そして執事さんに連れて行かれる、彼の姿を思い出し…俺は居た堪れない気持ちを抱いた。
あいつ…大丈夫かな?
怪我は…してるだろうな…いくら頑丈だっていっても。
沸々と湧く不安に、俺は羽織っている布団を握り締めた。
あいつって…変って言うか、世間離れしたところはあるけれど、結構気さくで真面目なところもあるし、悪い奴ではないと思う。
彼が転校してきて日にちは経っていないが、男色の変態である事を差し引いたら、俺は彼をかなり気に入ってるんじゃないだろうか?
彼との馬鹿なやり取りを、楽しんでる部分は否めないし……
むしろこの数日で、それが当たり前になってきている…俺の日常に、彼という人間が組み込まれていたのは間違いない筈だ。
だけど昨夜の一件で、俺の身体の異常性を、相手に知られてしまった。きっと彼は、俺の中途半端な肉体に嫌悪感を抱くに違いない。
もしそう思われて…今の関係が崩れ去ってしまったら……
「……どうしよう…嫌われ…ちゃったかな…?」
俺は誰に聞かせでもなく、小さくそう呟いた。
……………。
……ってぇっ! また勝手に『乙女回路』が発動している!?
「うぅぅぅぅニャァァァァァァァァ──ッ!!」
俺は制御しきれない己の感情に苛立ち、奇声を上げ布団を投げ棄てた。
あぁ…叫んだら頭がフラフラする……
寝てないものな…さっきからずっと、この事ばかり考え続けてさ。
……何で俺がこんな目にあわなきゃいけないんだ?
確認したわけじゃなけれど、きっと目に隈とかできちゃってて──
──…振り出しに戻る。
*
ゴツッ!
俺は壁に頭を打ち付け、思考を強制終了させた。
もういい、考えるな俺。
本件はこれにて閉廷…次回法廷はまた今度だ。
俺は眠気を振り払いベッドから抜け出す。忌ま忌ましい寝間着を脱ぎ捨て、胸から腰まで念入りにさらしを巻きつけた後、用意された普段着をその身に纏った。
この服は俺の自前で、半袖のポロシャツにジーンズという、飾り気のない普通の男物だ。昨夜あの後、八雲さんに取りに行かせました。盗撮の罰として。
俺は鏡の前に立ち、着替えた姿を確認する。
うん、何時もの俺だ…少し目に隈があるけれど。
パンッと軽く両手で頬を叩き、俺は朝食を取るべく部屋を出た。
廊下を出てすぐ──俺は視線を落とし、そこに座する人物を見る。
そこで正座していたのは…迷彩服のつなぎを着た八雲さんだった。
昨夜、あまりのおふざけに激怒した俺は、服を取りに行かせた後「一晩、正座でもしてろ!」と怒鳴り散らしてしまったのだが…もしかしてこの人、本当にそれを実行していたというのだろうか?
「えっと……おはよう…ございます……」
俺は恐る恐る、彼女に声をかける。すると彼女は俺を見上げ、
「おはようございます、天城様」
と、満たされた表情を浮かべ返事を返した。
……何か、喜んでません? この人。
全然、罰になってない…むしろ『ご褒美』になってる…とか?
……………。
ただ今この瞬間、彼女は『俺様変態ランキング』において、ブッちぎりトップを獲得しました。
俺はため息を洩らした後、今なお言いつけ忠実に守る彼女にこう言った。
「もう…怒ってませんから、仕事に戻ってください」
「……畏まりました」
彼女は何故か残念そうに返事を返すと、ふらつきながら立ち上がる。「何かありましたら、何なりとお申し付けください」と言って去る彼女に、俺は苦笑いを浮かべ曖昧に返事をした。
……今後は彼女の行動はもちろんの事、掛ける言葉にも気をつけよう。
大変な使用人を押し付けられたものだと、俺は深くため息を吐いた。
うん、まぁ…なんだ。
俺は気を取り直し、再び食堂へと向かった。
だがその歩みも、しばらくしてピタリと止まる。俺の向かうその先に、真柴兄が悠々と歩いていたからだ。
真柴兄は俺に気付いたらしく、振り返りにこやかに挨拶した。
「やぁ! おはようミッちゃん!♪」
「お…おう」
何時もと変わらず向けられる笑顔に、俺は声を吃らせる。昨夜の仕打ちに引け目を感じるというのもあるが、その屈託のない表情は、今の俺には眩し過ぎた。
そんな俺の葛藤など、彼はお構い無しに語り始める。
「実に清々しい朝だとは思わないかね? 穏やかで澄み切った山の空気…この洗練された空間に、君と共に在れる幸せ。何と素晴らしい事か」
「うん、そうだな…さっきまでは」
片手に胸を当て天を仰ぎながら、その幸せを噛み締めている彼に、俺は冷ややかにそう答えた。
今の貴様を見ていると、胸焼け起こしそうだよ。何でそういちいち、動作がオーバーなんだか。
それにしても、昨夜あれだけ痛めつけたにもかかわらず、まったく何ともないってのはどういう事だ?
まぁヘリを撃ち落されても平気だったような奴だし、身体の心配をするのは馬鹿らしいからやめるとして、奴の態度が何時もとまったく変わらない事に、俺は釈然としない物を感じた。
……だってこいつ、人の胸揉みやがったんだぞ?
昨夜のハプニングに対して、謝罪を求めるわけではない。けれど、まったくその出来事に触れてこないのは、どういう事だ?
「……あのさ…昨日の晩──」
「そうだ、そう言えば!」
昨晩の事について問いかけようとする俺の言葉に、彼はそう言葉を被せた。
う…自分で振っておきながら、いざこの話題をとなると動揺してしまう。
彼の次に発せられる言葉が怖い。
──…キモチワルイ、オトコノクセニ、オマエナンカトカカワリタクナイ。
様々な罵倒が、幻聴となり俺を責め立てる。
もしそんな言葉を、昨日まで好意を抱いてくれていた人物から聞かされたら…俺は耳を塞ぎ、その場を去りたい衝動に駆られた。
だが彼が口にしたのは、俺のそんな危惧とはまったくかけ離れたものだった。
「昨夜、実に懐かしい…前世の夢を久々に見たのだよ」
……ハイ?
今、何て言った?
俺は彼が何と言ったか理解できず、思わず首を傾げる。彼はそんな事はお構い無しに、更に言葉を続けた。
「あれは忘れもしない、君の居城の庭園での出来事だった…因みにこの屋敷の中庭は、それを忠実に再現した物で──」
長々と、彼は懐かしむように語り続ける。そんな彼を見つめながら…俺は沸々と湧き上がる感情に身を震わせていた。
……………。
……夢…デスカ。
つまりアレですか?…昨夜のアレを、完璧に覚えていないと。
そりゃまぁ、あれだけ頭を打ち付けたんなら、記憶のひとつも飛ぶかもしれない。
そうかもしれないが…こっちは昨夜の事で、どれだけ悩まされたと思ってんだ?
それなのに…相手はスッパリ忘れてるだと!?
俺の中で、何かが音を立てて数本切れた。
「今でも思い出すよ…君が照れ隠しに放った、顔への跳び膝…ゲフッ!!」
俺は両手で真柴兄の頭を掴むと、顔面へ跳び膝蹴りを叩き込む。床に崩れ落ちる奴の姿を確認した俺は、踵を返し来た道を戻った。
肩を怒らせて部屋に戻る途中、俺は吉村と鉢合わせる。彼は俺の形相に驚き、何があったのかと問いかけてきた。
「よっヨウ!? どうしたんだ…そんな顔して……?」
「ナンデモナイ…寝る!」
俺はそれだけを彼に言うと、寝室の扉を力任せに閉め、力なくベッドに身を投げた。
*
こうして週末を無駄に過ごした俺は、万全とは程遠い状態のまま、期末試験を迎える事となった。
先に結論を言おう…そりゃあもう残念な有様ですよ。
結果は散々たるものだった。まだ自己採点によるもので正確ではないものの、教科によってはもしかしたら、赤点を取っているかもしれない。
……何の為の勉強会だったんだ。
俺は机に突っ伏す…因みに、今日はテスト最終日。しかも試験はすべて終わり、後は終礼を待つばかりという状況だ。
ふと、視線を前に移す。よく見ると、そこには俺と同じように、朽ち果てた屍が二つあった。
「……俺…さ……このテストが終わったら…田舎で剣道場を開くんだ…」
「………時が見えます…」
何やらうわ言を呟く小枝原と相庭。どうやら二人も、俺と似たような結果だったのだろう。
俺らがそうやって腐っているところへ、何時もよりも早く小野先生が現れる。彼は挨拶もそっちに、手にした紙の束を見せびらかした。
「よ~しお前達、席に着け! ちょっと早いが、物理のテスト返すぞ」
その言葉に驚く一同。何時もなら一週間あるテスト休みの後…その明けの授業で返されるそれを、今手渡すというのだから。
それに疑問を抱いた委員長が、先生に問いかけた。
「先生何でまた急に、今日渡すだなんて──」
「だって皆、早く結果を知りたいだろ? それに折角のテスト休み…有意義に過ごしてもらいたいし」
彼女が最後まで言い切る前に、先生はそう言いニヤリと笑う。『結果』って…あぁそうだ忘れてた!
今回の期末は、何時もと違い妙な事になってたんだっけ!!
俺は慌てて身を起こす。教壇では、先生が解答用紙を配る準備をしていた。
「さ~てお待ちかね! 例のゲームの結果発表だ。本来なら出席順に返すとこだが、今回は最初に天城から点数を発表するからな」
「発表するな! 黙って返せ!!」
「まぁお前さんの点数を秘密にして、各自の点差をポイントに換算して発表してもいいんだが…逆算したらどっちにしろばれるし、別に良いだろ?」
俺が抗議すると、先生は悪びれもなくそう告げる。
「それよりも早く取りに来い。後が支えてるんだから」
彼はそう言うと、急かすように手招きした。
俺は渋々、教壇へと向かい解答用紙を受け取る。そして書かれた点数に落胆した。
……53点。
くそ、何時もより酷い結果だ。
「先生、お前ならもっと頑張れると思ってたんだがなぁ?」
「期待にそえられなくて、すみませんね」
愚痴を零す先生に、俺は悪態で返した。
「えぇ~~~っ!? ミッちゃんがその点数じゃ、私の勝率絶望的だよぉ!!」
聞かされた点数に不満を抱いてか、相庭は大声でそう叫んだ。
確かに俺がこの点数じゃ、勝敗は純粋な点数差で決まってしまう。相庭や小枝原の勝ち目なんて、もはや0だ。
そうなると…勝負は吉村、委員長、いさみさん、真柴兄の四つ巴になるのは火を見るより明らかだ。
その現実を前に、教室は一気に静けさをます。そんな中、先生が呼ぶ生徒の名前をBGMに時は流れた。
だが次の瞬間、先生の声は単調なBGMじゃなく、戦いを告げるゴングへと変わった。
「よ~し…次、岸辺」
「はい」
先生の呼び声に、彼女は小さく返事をすると、力強い足取りでその向かいに立つ。そして告げられた得点に、彼女は眉を顰めた。
「92点。…いや、いつもながらさすがだねぇ~」
「……………」
その結果を誉める先生とは裏腹に、彼女は納得いかないといった表情だ。
けどさ…その点数に、一体何が不満なわけですか?
無言のまま席に着く彼女の後姿を見つつ、俺はそう言いたくて仕方がなかった。
そうこうしながらも、テストの返却は次々と行われていく。皆それぞれ渡されたテストを手に一憂一憂して…って誰か喜べよ! 点数を聞く限り、皆何時もより点高いじゃないか!!
まぁそんな俺の心中は置いといて…ほぼ全てに解答用紙は配られ、残すところは後三人。
出席番号を一番後ろに控える、真柴兄妹と吉村だけとなった。
「よし、それじゃベスト3を発表するぞ」
「ぅ……」
そう高らかに宣言する先生の言葉に、委員長が小さく声を洩らした。
もしかしたらという淡い期待を抱いていたんだろうな…先生、アンタ罪な人だよ。
「真柴いさみ」
「……はい!」
いさみさんの名前が読み上げられ、彼女は席に立ち前へ出る。そして告げられた点数に、その場にいた全員が驚嘆した。
「98点…最後の選択問題さえ落としてなければ、満点だったのにな」
「なっ!!」
だがその驚くべき点数を聞かされたいさみさんの反応は、決して芳しく思っていないといった風で、事実に驚愕し目を見開いている。
そして俺の横では、妹の姿に勝利を確信し微笑を浮かべる兄の姿が。
オイオイ…まさかと思うが……
──…そのまさかだった。
「真柴勇、満点な」
先生のその一言に、一同言葉を失った。
お前ら、一体どういう脳味噌してるんだ?
これが、真柴の子息の性能という奴か!?
とんだ出来レースだよ…あぁ、皆落胆して黙り込んじゃってるし。
……何か嫌な沈黙が流れる。
そんな中、先生は最後の一人…吉村の名前を読み上げた。
……そうだ、まだ吉村が残っている。
今回のテストは、何時もと違い本気を出すって本人も言っていたし、もしかしたらと期待が膨らむ。
だが…同率1位だった場合どうなるんだ?
確か先生が持っていた鍵は、合鍵と合わせて2本あった筈。
もしそれを互いに渡すとなれば…俺にとって不利益なのは変わりない。
タカに鍵を持たれるのは平気だが…実際、前の玄関の鍵、預けていたし。
どうなるんだろうと不安を抱き、俺はタカの顔を見上げる。その視線に気づいた彼は、小さくため息を吐きこう述べた。
「……残念ながら、俺は勝てる勝負しか挑まないのでね」
その言葉に、一同が落胆の息を零す。その中でただひとり、真柴兄だけが笑みを浮かべた。
だがそんな彼の姿に、タカは口の端を吊り上げる。
「だからこそ…俺の勝ちだ」
彼はそう言い放つと、その冷淡な笑みのまま、手にした己の答案用紙を、俺達の前に提示した。
その回答欄には、正解を意味する丸が、全ての欄に刻まれている。
全問正解…満点なのだ。
そう…本来ならば。
「先生、0点を大威張りで見せる生徒を初めて見たよ」
「「「「「はぁっ!?」」」」」
驚愕の真実に、俺達は思わず叫びを上げた。
つまり…どういう事だ?
俺は驚きあまり、頭が十分に働かなくなり、簡単な計算もできなくなる。
え~っと、俺の点数が53だから、真柴兄のポイントは、100から引き算して47ポイント。
逆にタカは俺の得点から、0点を引くわけだから……
53ポイント…タカのまさかの優勝!?
「うぃなー、た~かき~」
「ちょ、ちょっと待ってくれたまえ!」
先生がやる気無く勝者を称える言葉を呟く横で、真柴兄が慌てて異議を申し立てた。
「教諭! 貴方は確か、わざと低い得点を取るのは禁止していませんでしたか? これはルール違反だと思われますが!!」
「ん~、別に違反はしてないぞ? ちゃんとルール聞いてたのか?」
真柴兄の言葉に、小野先生はそう言い苦笑いを浮かべる。俺達はその言葉を聴き、改めてルールを思い返した。
まぁ見ればわかるとおり、点数が低くても勝ちがあるってルールだが、【わざと間違えるのは】反則な。【白紙提出はもちろんの事】、前回の中間試験の得点以下の点数をとった場合、【特例を除き】失格とする。例えわからなかったとしても、【問題は】必ず全部埋める事──
「「「「「あぁ───っ!!」」」」」
俺達は導き出された答えに、思わず声を出した。
改めてタカの解答用紙を見る。確かにルール通り回答は全て書き込まれ、しかも文句なしの全問正解。わざと間違えるだなんてまったくされていない…ただ一箇所、ルールに縛られていない名前欄だけを除いて!
「莫迦…な……名前無記入…だと!?」
落胆し膝を突く真柴兄。そんな彼に、タカは勝ち誇りこう言った。
「正攻法が、必ずしも正解とは限らない…事人生において、結果の出せぬ手法に意味は無いんだよ」
タカは更に「それに固執するはただの自己満足だ」と、言葉を付け足し席に戻った。
吉村隆樹…恐ろしい子!!
「けど先生、今回の趣旨を考えると、涙が出るんだけどな~?」
着席したタカを見ながら、先生は恨めしそうに呟いた。それに対しタカは、
「クラス平均は間違いなく、A組に勝てないでしょうね。もっとも生徒をダシにした、先生への制裁の意味もあっての選択ですから、諦めてその罰を受けてください」
と、満面の笑みを浮かべて答えた。
先生は「補習の時、覚えてろよ!?」と棄て台詞を残し、いそいそとその場を去っていく。俺はその姿を見送った後、感謝の気持ちを胸にタカの方を見た。
すると彼は…まるで子供が悪戯を成功させた時のように、親指を立て俺に微笑んだ。