5、裏側
クロノとツルギが見張りをしている頃———同時刻。
ユキは一人、こっそりとテントを抜け出し薄暗い森の中に入っていた。誰にも気付かれないよう忍び足で気配を完璧に押し殺してだ。この時点で既に怪しい。
しばらく周囲を見回し、やがて誰も居ない事を確認した彼女はほぅっと一息。そして虚空を睨むようにある一点を見据え声を上げた。
「もう良いでしょう。私に何の用?」
風が森の枝葉を揺らす。獣や鳥の声が、気の枝が擦れる音に混じって聞こえる。しかし、それ以外の声は欠片も聞こえてこない。
しかし、ユキは確かに感じていた。目の前に、何者かが息を潜めている事を。
「用が無いなら帰るよ?それとも、此処で一戦交えるつもり?」
「ずいぶんと警戒するのだな。そんなに人間に正体がバレるのが怖いのか?母よ」
周囲に木霊するような、重く響き渡るような声だった。
其処に居たのは、巨大な蜘蛛の怪物だ。人間など一呑みに出来るだろう、巨大な蜘蛛。それが複数の瞳でユキを見据えていたのである。怪物の王、蜘蛛王ツチグモだ。
ユキはそんなツチグモの軽口をひと睨みで黙らせる。
「私に何の用?返答次第では………」
「ふむ、別に俺も母と敵対したい訳ではない。此処は素直に本題を話そう。
母よ、俺達の許へ戻る気は無いのか?」
「無いよ、私はあくまで人間だから。人間を裏切るつもりは一切無い」
即答だった。あくまで自分は人間の味方であると、彼等を裏切るつもりは一切無いと。
強い意思を籠めてそう断言した。
しかし、その言葉はツチグモも分かっていたのだろう。そして、それでも母であるユキを連れ戻さなければいけない事も彼は理解している。
ユキは知らない。知っているようで、彼女は何も知らないのだ。
彼女が人類の味方をしているようで、逆に人類を追い詰める一因となっている事を。彼女こそが人類を何よりも追い詰めている最大の要因である事を。彼女は知らないのだ。
何故なら、白川ユキこそが———
「………そういえば、バハムートを撃ち落としたあの人形の一撃。あれは竜王ゲオルギウスの技を模したモノであると俺は見たが?ずいぶんとまあ、劣化したものだな」
「…………何が言いたいの?」
「あの程度では我ら王を打ち倒す事など出来まい。本物のゲオルギウスの一撃は、それこそ大陸を一撃で溶断させうるだろうに。それでまあ、よくもドラゴンブレスなどと」
「だから、何が言いたいのよ!」
怒りと焦りにより、ユキの口調が荒くなる。
そんな彼女に、ツチグモは至極あっさりとした口調で言い放った。それこそ、まるでたわいもない事を話しているかのような。そんな口調で………
「別に、母が戻る気がないのなら周囲の人間を皆殺しにしてから連れ戻せば良いだけだ」
「っ、本気で言っているの?」
「何処までも本気だとも。それ程に、我らは母を連れ戻したいのだ」
本気の殺気を籠めたユキの言葉。それに対しツチグモはあっけらかんと言い放つ。
そして、真っ直ぐとユキを睨み返して続けた。
「分かっていないのは母の方だ。我らはたった一体だけでも大陸を沈める程の力を持つ。それが何故こんな小さな島国を未だ沈めずにいるのか?」
「……………………」
「別に、我らは何時でもこんな小さな島程度、沈める事が出来た筈だ。
それなのに、何故だ?」
「……………………」
ツチグモの言葉が、ユキの胸に刺さる。それは誰よりユキが知らなければいけない事だ。
いや、或いは意図的に知ろうとしなかった事かもしれない。
まさか、怪物の王ともあろう者が人間を相手にしてあからさまに手を抜いていたとは。
思いたくもなかった事実だろうから。
「………何故、貴方達は———」
「手を抜いたかだって?簡単な話だ。母に気を使っていたからだ。しかし、それも母が知らぬ存ぜぬで通す気ならばそれも仕方あるまい。我らは全力で人類を滅ぼそう」
「…………っ」
ユキは思わず顔をしかめる。全力で、一切の手加減なく王達が暴れた姿を想像した故に。
彼は本気だ。何処までも本気だ。そして、王である彼等が本気で人類を滅ぼそうとすれば文字通りに一分と掛からずに人類は滅びるに違いない。それ程の力が、王にはあるから。
全ての王が全力で暴れれば、その気になれば人類は容易く滅びるだろう。それを理解したからこそユキは最悪の予想を立ててしまったのだ。
「………何故、貴方達は其処までして私を連れ戻したいの?私が、貴方達の母だから?それとも私が人間達の味方をしている事が気に入らないの?そんなに、人間が憎いの?」
だからこそ、ユキは露骨に話を逸らした。逸らさずにいられなかった。
しかし、逸らしたその話題が予想外だったのか。それとも何か嫌な話題に抵触したのか、ツチグモの気配が急激に変わった。その気配の急変に、周囲の空気が一気に低下する。
その気配の急激な変化に、ユキは一瞬たじろいだ。そんな彼女にもおかまいなしに、ツチグモは剣呑な気配を漂わせて告げた。
「………母は、一度もおかしいと思った事がないのか?本当に?」
「…………え?」
「人類文明が滅びて約千年近くの時が経過しただろう。その内、数十年くらいで既に最初期の怪物が姿を現し始めたのだったか。さて、この怪物達は何処からやってきた?」
問われたユキは、僅かに考える。それは、確かに不思議に思った話だった。
人間の間では、全ての怪物は星のアバターから生まれた事になっている。全ての怪物は、元を辿ればその一体へと行き着くとされている。それが定説だ。
しかし、ユキ自身そんな話は知らない。そんな存在を生み出した覚えが無いのだ。
全ての王は、星のアバターを元にして生み出された。それはユキも知っている。
怪物の王は、元を辿れば星のアバターから培養された架空塩基を元に生み出された。
しかし、他の怪物達は?一体何処から生まれたのか?
「ま、さか………」
「星のアバターが持つ力は星の環境制御能力と不老体質だ。しかし、本当にそれだけか?」
星のアバターが持つ力は不老の体質と固有の異能である星の環境制御だ。その力により、白川ユキは全ての王の中でも最強たる力を保有している。
彼女がその気になれば、地球を一瞬にして死の星へと変貌させる事すら可能だろう。その気になれば傷付いた星を生命力の溢れる自然豊かな星へ戻す事も出来ただろう。しかし、だ。
星のアバターが持つ能力は、本当にそれだけなのか?
確かに、その二つだけでもかなり強力な力だろう。その力だけで、全ての王を上回る。
しかし………
もし、星のアバターであるユキに隠されたもう一つの力があったとしたら?もし、他にユキ自身すら知らないもう一つの機能があったとしたら?
或いは、彼女の架空塩基そのものに何か、他には無い特性を持たせていたら?
本当に、文字通りに白川ユキが全ての怪物の母たる存在だったら?
ユキは、自身の顔が青ざめてゆくのが理解出来た。まるで、視界が暗転してゆくような。
立ち眩みにも似た感覚が彼女を襲った。まるで、全身から血の気が引いてゆくような。
そんな、恐ろしさだった。
「………今回は此処で立ち去るとしよう。しかし、次に会う時は良い返事を期待している」
そう言って、ツチグモはそのまま去っていった。周囲は、元の静寂を取り戻した。
しかし、もう立ってなどいられなかった。そのままユキは崩れるように膝を着く。
「どうすれば………私、一体…………」
もう、何も理解出来ずユキはそのまましらばらく呆然とうわ言を繰り返すのみだった。
「どうすれば………私はどうすれば良いの?…………分からないよ」
闇は深く………




