5、生と死を超えて
洞窟の入口前———俺とユキ、そしてオロチは対峙していた。
どうやら、先程までユキが一人でオロチと戦っていたらしい。彼女とオロチの前には、大量の怪蛇の死骸が転がっていた。ユキが、一人で倒したのだろうか?
「ユキ」
「クロノ君、良かった。生きていたんだね………」
俺の言葉に、ユキは真っ先に反応する。
俺の生存に本気で安堵していたのか、ユキは涙ぐみ笑みを浮かべた。その笑顔にオロチは何故か一瞬だけ悲しげな表情を浮かべた後、俺に激しい怒りの表情を向ける。
それは、まるで大切な人を奪われた者のような。そんな激情を宿した怒りの表情だった。何故オロチはそんな表情を俺に向けるのだろうか?しかし、少なくともその原因はユキにある気がした。
一体、オロチとユキはどのような関係にあるのだろうか?
それとも、俺には理解出来ない事情があるのだろうか?俺には理解出来ない何かが。
解らない。解らないが、それでも恐らく俺は今オロチに憎しみを向けられているのだろう。
それだけは、理解出来た。オロチの激しい怒りと憎悪に大気すら軋みを上げる。
怒りに呼応し大気が荒れ狂う。轟々と暴風が吹き荒れる。
「………そうか、貴様か。貴様が居るから」
「……………………?」
「貴様がっ、貴様が居るから母は我らの許に帰って来ないのかっっ‼‼‼」
「っっ‼?」
怒号。オロチの怒りに周囲の自然環境が呼応し、大嵐が荒れ狂う。その大嵐は大陸すら崩壊させ沈没させかねない程の威力を持つ。それが、局地的に圧縮され極大の災禍へと変わる。
しかし、そんな事はどうでも良い。そんな事など些細な事だろう。それよりも、今オロチの口から聞き捨てならない言葉が聞こえた気がした。
………母?
「母、だって………?」
「っ⁉」
ユキの表情が悲痛に歪む。まるで、聞かれたくない事を知られてしまったような。そんな悲しく痛ましい表情だった。何故、そんな表情をするのか?ユキは一体………?
一体、何を隠している?
しかし、そんな事を考えている暇など一切無かった。オロチの起こした極大の大嵐が俺へと一斉に牙を剥いたのだ。それは、まさに天災とも呼べる自然の猛威。
バケツをひっくり返したような豪雨が、全てを薙ぎ払う大竜巻が、幾百幾千の雷が。
一斉に俺へと牙を剥く。俺を薙ぎ払い打ち砕かんと猛威を振るう。
「オオ、オオオオ………オオオオオオオオオッッ‼‼‼」
「ぐっ…………‼?」
極限に圧縮された大嵐。それを前に俺は身体を砕かれそうになる。しかし。しかし、だ———
俺だって、ただやられるだけではないっっ‼‼‼
「があああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっっ‼‼‼」
俺は、その災厄の極致を前に気合で打ち破る。俺の身体から噴き出す焦熱の業火が、天地を砕く大嵐を容易く吹き払った。それは、あまりにも常識外の光景。
全てを薙ぎ払う豪雨が、大竜巻が、雷が。大嵐が焦熱の業火により容易くかき消され吹き消されてゆくのが一目で理解出来る。ありえない光景が、常識の埒外にある光景が、目の前にあった。
その光景に、さしものオロチも目を大きく見開いた。しかし、それも一瞬の事。歯を軋らせて俺を忌まわしそうに睨み付ける。まるで、それこそ親の仇でも見るように。
俺を憤怒と憎悪の瞳で睨み付ける。
「貴様が、貴様が居るから………」
「お前は、一体何を?」
「黙れっ‼貴様を殺す‼」
何故、其処まで俺一人に憎悪を向けてくるのか?何故、其処までユキに執着するのか?それは俺には理解出来ないけれど。それでもこれだけは理解出来た。
恐らく、もう俺とオロチは戦うしか道が無いのだろうと。
戦うしか、道は残されていないのだろうと。俺は理解した。
故に、俺はオロチに対し真っ直ぐ見据えて構える。オロチも、俺を真っ直ぐ睨み付ける。
俺に向かい、オロチが猛烈な突進を仕掛けてきた。その鋭い牙を剥き、俺へと襲い掛かる。俺もオロチの牙に立ち向かう為に拳を構え………
しかし、その牙が俺に突き立てられる事はなかった。
周囲を、鮮烈な赤が飛び散る。俺の身体を、その赤が汚す。
「………え?」
「………っ、な?」
俺とオロチが、同時に愕然とした声を上げる。飛び散った血は、俺の物ではなかった。どころかオロチの物でもない。それは、その血は………
俺の前に、ユキが立っている。オロチの巨大な牙が、ユキの身体に突き立っている。
傷は深い。深々と、ユキの身体に突き立っている。
「………っ、こほっ」
肺をやられているのか、ユキは血を吐き出した。それでも、ユキは笑っていた。俺に、優しい笑みを向けていたのである。まるで、俺を心配させないように気を使っているかのように。
まるで、俺を守れて心底幸せであるかのように。彼女は笑っていた。心底から、眩いばかりの笑みを浮かべていたのだ。その笑顔に、俺の心が軋みを上げる。
ユキの身体が、大きく揺らぐ。
「っ、ユキ‼‼‼」
ユキの身体を抱き止めた。驚く程華奢な身体。そのユキが、今真っ赤な血に染まっている。逆にユキの身体は血を失って青白くなってゆく。
そんなユキの姿を見て、当のオロチも狼狽する。
「っ、な………あ。は、母よ………何故っ?そんな………嘘だ………」
狼狽するオロチ。しかし、もうユキは言葉を発する余力すらないのか笑みを浮かべるのみ。
その笑みも、青白く死相のよう。さぁっと、俺の血の気が引くのが解った。
ユキの震える手が、俺に伸びる。俺はその手を握り締めた。氷のように冷たい手。体温を感じる事すらもう出来ない。その温もりが、彼女から失われてゆく。
そして、ユキは満足げな笑みを浮かべたまま意識を失った。力尽きたように、俺の手からするりと彼女の手が落ちる。俺の心に、言い知れぬ感覚が襲う。
この感情は一体何なのか?それすら、考える余裕がない。ただ、彼女を失うのが怖い。
彼女が居なくなるのが、何より恐ろしい。
「ユ、キ………?おい、嘘だろう?ユキ…………」
そっと、ユキの身体を揺さぶる。瞬間、僅かに呼吸の音が聞こえた。
どうやら、まだ微かに息はあるらしい。しかし、一刻の猶予も無いだろう。
オロチはまだ呆然と立ち尽くしたまま。狼狽したまま身動き一つ取れない。
何事かを呟いているが、それを聞き取る暇も今は惜しい。そんな余裕など、何処にも無い。
「っ、早く処置をしないと………間に合わない‼」
急ぎ、俺はその場を離れる。ユキを抱え、出来る限りユキの身体に負担がかからないようなるべく揺らさないよう心掛けながら運ぶ。でなければユキが手遅れになると知っているから。
そうして、俺はその場から早急に離れた。急ぎ、駆け抜けた。
・・・・・・・・・
その場に取り残されたオロチ。その口からは小さな声が絶え間なく漏れている。
「嘘だ………母よ、何故…………。いや、そんな筈はない………。母は、まだ…………」
うわごとのように、まるで信じられない事実を前に狼狽するように。オロチは口から只管に言葉を漏れ出させていた。そして、やがて。
その言葉は、言いようのない悲鳴へと変わっていった。
「お、おおっ………。オオオオオオオオ…………」
言い知れぬ感情に、オロチの心が軋みを上げ悲鳴を上げる。
その感情の奔流に、オロチの心は耐え切れない。故に、その絶望に悲鳴を上げる。
「オオ……オオオオオオッ、オオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォッ‼‼‼」
ただ悲鳴を上げ、泣き叫ぶ。それはまるで、子供の泣き声のように悲痛で痛々しかった。
その悲鳴は、絶叫は、何処までも物悲しく天に響き渡った。




