30:転生者
エルピス専用の執務室、そこは今回の仕事の報酬として貰ったエルピス専用の部屋の一つであり、部屋の奥にある執務机の先には淡々と執務をこなすエルピスがいた。
昨夜一緒にエラと王国祭に行く約束をし、一部早急に終わらせておかなければいけない仕事を始めて早数時間。
国王に渡された様々な書類とエルピスが悪戦苦闘していると、机を挟んで正面に作られた扉がゆっくりと音を立てながら開いた。
一体誰かと思いながら目を向けてみると、可愛らしい衣装に身を包みながらこれでもかとあざとい仕草をしているアウローラが立っていた。
普段はそのまま下ろしている髪を一つにまとめ、可愛らしいフリルがたくさん付いた服装をした彼女は、執務をしているエルピスに近寄りながら言葉をかける。
「やっほ~。どう? 順調に進んでる?」
「まぁある程度は。アウローラはなんでここに?」
「ん? 特に用事は無いけど、暇だから来ただけよ。外にも出れないしね」
そう言いながらアウローラは来客用に置いてある椅子に座り、バリバリと机に置いてあったお菓子を食べ始めた。
エラが一から手作りで作ってくれたお菓子なのでエルピス的にはあまり食べて欲しくないが、とはいえ来客者が食べる位置に置いてある以上そんなことを伝えるのもおかしな話ではある。
来客者が来たなら対応するべきではあるが、エルピスはアウローラなら無理に構わなくて良いかと書いていた書類に再び手をつける。
それから数分後、ふと思い出したようにエルピスはアウローラに向かって言葉を発する。
「そういえば、大分目の方は良くなったみたいだね」
包帯を目に巻きつけて、お菓子をぽりぽりと食べるアウローラを見ながらエルピスはそう言った。
昨晩完全に切断されていた耳から目にかけての傷は、もう既に傷跡すら残らずに癒えており、昨日の戦闘などまるでなかったのではないかと思わせるほどだ。
完全に目は覆われているのでまだ視覚は機能していないだろうが、この世界には技能があるので上手く賄っているのだろう。
「セラちゃんがが凄い魔法を使ってくれたおかげで、明後日くらいには完全に見える様になるってさ。あの子何者?」
「追求しないでもらえると助かるかな」
「まぁ別に本当に聞きたかったわけじゃないわよ、ただの世間話。医者からはもう見えないって言われてたのに、魔法って便利な力よね……あっ! そう言えばさ、今日暇?」
「今日? ひるまはエラと約束しちゃってるけど……夜なら大丈夫だよ?」
「ふ~ん、そう。なら夜に私の部屋まで来てね」
さすがに何度も話しかけられては黙って作業を続ける訳にも行かない。
ある程度キリのいいところで作業を終えて対面に座り、エルピスは自分の分のお菓子と紅茶も用意する。
休憩には丁度いい時間帯でもあった。
「ありがと。執務の方は良いの?」
「大体終わらせたし大丈夫だよ。それにアウローラ様がわざわざこちらに足を運んでくださったのに、出迎えない訳にもいかないでしょう?」
「嫌味な言い方する様になったじゃない」
それから数分ほどのたわい無い雑談の後に、そんな先ほどまでとは全く違う、真剣な顔でアウローラは口を開いた。
「──そう言えばエルピス。貴方、もう両親とは転生について喋ったの?」
いきなり投下された爆弾に飲んでいた紅茶を吹き出してしまいそうになりそれをなんとか堪えたエルピスは、むせる身体を抑えつつ答える。
「あー、それはあれだよ。タイミングが無かった的な」
「タイミング? あの後いくらでも時間あったわよね?」
「事後処理で忙しかったから…」
「ようするに言えてないのね?」
「……はい、そうです」
執務室に来た理由はこれかと心の中で思いながら、エルピスはアウローラに対して正直にそう言った。
昨日は確かにあの戦闘が終わった後、両親と喋る機会は多かった。
だがそれはあくまでもアウローラを助けた後の対応などが主だった物だったので、エルピスについての事は話す機会が無かったのだ。
だがそれを言い訳にするのは許さないとばかりに、アウローラは畳み掛ける様に喋る。
「今日はあんたの両親二人共仕事とか何も無いらしいから早く行ってらっしゃい。残りの執務は私が替わりにやっておくから」
「だけど──」
「──良いから行って来なさい。昨日は助けて貰ったし、技能を使えば目が見えなくてもこれくらいなら出来るしね。私なりの恩返しと思ってくれればいいわよ」
紅茶を飲み終え一息ついてから、アウローラは先程までエルピスが座っていた椅子に座り、エルピスに対して白い頬をほんのりと紅く染めながらそう言った。
その顔からは何を言われても引かない決意が見え、エルピスはそれなら仕方がないかと執務室の扉を開けて廊下に出る。
「ありがとう……行ってきます」
「行ってらっしゃい。エルピス」
嬉しそうにそう言ったアウローラの言葉を背に受けながら、エルピスは執務室を後にした。
その後ろ姿を眺めながら、アウローラはホッと息を吐く。
理由としてはいろいろあるが、一番は素直にエルピスが両親の元へと向かってくれたからだ。
「私の場合は勝手に周りが把握してくれてたから良かったけれど、あの子の場合は両親が気づかないように立ち回ってたみたいね。
身の回りの人達にも箝口令を敷いていたみたいだし」
いままで隠してきた事を後から見知った人に言うというのは、意外と勇気が必要な事だ。
それも自分の今の立場を変えかねない重要なものであれば、それに対する恐怖心もまたひとしおだろう。
誰か背中を押す大人が必要だった彼にとって、アウローラのような異世界人が居たのは不幸中の幸いだった。
長引けば長引くほど秘密は出しづらくなり、場合によっては最悪のタイミングになる可能性もある。
「出会ったときは年相応の小さい子に見えたけど、大きくなったものね」
彼の顔を思い出しながら、アウローラはポツリと言葉を漏らす。
初対面の頃は少し大人びては居たものの、所詮は子供といったイメージだった。
魔法を使ったときの無鉄砲さや計画性のなさ、変なところに感動するところや力があるが故の油断など。
王国有数の貴族の長女として貴族の派閥争いに揉まれてきたアウローラとは違い、同じ転生者でもまだまだ青かった。
それが一皮むけただけであれだ、男の成長は早いというがアウローラからしてみれば一晩で男の子が男性に変わったのだ。
自分の中にあるこの気持ちの正体が、本当に自分が思っているものなのかもはっきりとしていない。
「ライバルも多そうだし、まずは外堀からゆっくりかしら」
片手間に執務をこなしながら、アウローラは楽しそうに呟く。
もしここに誰か人がいれば思わず釣られて笑ってしまいたくなるほどの、可愛らしいアウローラの笑顔に反応する人物はこの部屋にはまだ居ない。
とりあえずは今日の夜、時間ならばいくらでもあるのだ、ゆっくりと攻めよう。
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「とは言っても何処に行けば会えるんだ?」
アウローラに両親の場所を聞いておけば良かったなぁと思いながら、エルピスはとぼとぼと王城の廊下を歩く。
いまさら引き返してどこにいるか聞くのもなんだが違うし、それにアウローラが両親のいるところを知っている確証もない。
(このまま当てずっぽで探しててもラチがあかないし、〈神域〉でも使って探すか)
そう思い近くにある中庭から適当に屋根をつたって、出来るだけエルピスは王城の上の方に登って行く。
数歩程度で一番高いところまで来れたので、滑り落ちないように気をつけながら屋根に腰掛けエルピスは〈神域〉を使用する。
(にしてもここ高すぎじゃない? 足すくむんだけど)
高所恐怖症なのにこんな所に登るもんじゃないなと思いながらも〈神域〉の範囲を徐々に伸ばしていく。
イメージとしては家屋の間を水が侵食していくように、大通りを中心にそこから枝分かれする様にして周辺を探っていく。
人通りが多く苦労しながらなんとか範囲を広げていくと、ようやく両親の居場所が分かった。
どうやら西の街にいるらしい。
確か彼処は工業系統の店が多く立ち並んで居たはずだ。
おそらくではあるが、前の戦闘で使用した武器の点検でもしに行っているのだろう。
「──さて、そろそろ行くか」
一番高い塔からなら行けるだろうと思いながら、エルピスは西の街に向かって飛び降りる。
高速で移動して行く視界に多少酔いを覚えるが、とはいえ特に問題は無いので、そのまま魔法を使用して翼のように魔力を展開し空を飛ぶ。
龍神の称号は既に解放した状態なのだが、翼で飛ぶ事に慣れていないため細かい調整が出来ないので、いまは魔法の方が有効なのだ。
結論から言うのなら、予想より数十倍怖かった。
速度は問題ない、昨日空を飛んだときの方が早かった。
問題は気圧の変化なのかなんなのか理由は分からないが、まるでジェットコースターに乗ったときのようなあの身体の臓器が全て上に引っ張られるかのような感覚だ。
二度とやらないと決意しながらも、お父さんとお母さんが居る場所に向かって飛んで行く。
一分もせずにたどり着いたのは、ぽつんと通りに立つ小さな工房だ。
看板も出ていないその店を直ぐに工房だと判断できたのは、鍛治神としての感が何か良いものがあると告げているからだ。
「あー怖かった……って凄いなこの武器」
店先のガラスケースに入れられた武具を眺めながら、エルピスは心の声が漏れ出した様に無自覚で驚愕の言葉を口にする。
上から見たときの印象と違い、店自体の見た目は古いのだが、総合的に見ると何処か周りの店よりも圧倒的に真新しく見えた。
それは店先に置かれた剣の影響だろう。
見た目だけで言えば王国に所属する兵士がよく使って居る鉄の長剣だが、その美しさはそこらの剣とは比較する事すら失礼だと言い切れる程だ、
こんな製造の仕方も有るのかと鍛治神の能力によってなんなとなく理解していると、不意に店から出てきた男がエルピスに声をかける。
「──剣の違いが分かるかボウズ? そんじょそこらの奴とは、物にかける時間が違うからな。どうだ? 試しに振ってみろ」
「良いんですか?」
「なぁに俺が打った剣だ。だれも文句は言やしねぇよ」
店先から出てきた赤茶色の髭を生やしたおじいさんにそう言われて、エルピスは両親を見つけに来たという当初の目的を完全に忘れ、ゆっくりと剣を手に取る。
さすがにエルピスが持つ聖剣ほどには軽くは無いが、一般の戦士が持つには充分すぎる程の軽さに驚きながらも、エルピスはゆっくりと剣を上段に構えそのまま振り下ろす。
一切の違和感なしに振り下ろされた剣は、店先に飾られていたこれまた綺麗な鉄の長剣を綺麗に切り落とし、一切の刃こぼれ無しにエルピスの手元に残った。
「すいません、力加減下手で。弁償します」
「気にすんなボウズ……それにしてもその歳でどれくらいの回数剣を振ったら、そんなに綺麗に振れるんだ?かの王国近衛兵にも匹敵する程だったぞ」
「そうですかね? ありがとうございます」
「使ったものは同じ。できはなんなら転がっているものの方が良かった、なら切れた理由はあんたの腕だな」
近衛兵のと比較された事になんとも言えない気持ちになる。
『ついて来い』と言いながら店の奥に入って行ったおじいさんを、切ってしまった剣を持ちながらエルピスは追いかける。
「ん? なんでエルピスがこんな所に居るんだ?」
「なんだイロアス。こいつの事を知ってるのか?」
「知ってるも何も、そいつは俺の息子だよ。この前話しただろ?」
「──ん? んん? そういやそんな話もしてたな! なる程なぁ…確かにお前らの子供ならあの綺麗な太刀筋も納得だ」
「綺麗な太刀筋? 確かにエルピスはこの前剣を使って戦ってたが、そこまで上手いもんなのか?」
「上手いも何も──まぁ取り敢えずこれを見てみろ」
そう言いながらおじいさんはエルピスの手から剣を取り、そのままお父さんに見せる。
まるで自分の作った物が、ようやく正当な評価と使いかたをされたと言わんばかりの嬉しそうな顔をしながら。
その間エルピスはと聞かれれば、近くの物を物色していた母に捕まっていた。
昨夜もエルピスの事を抱き締めてきていたのでエルピスからすればいつもの事だが、クリムは昨日とは違い冷静にエルピスの変化を探っている様だ。
抱きしめながらも手つきがいつもと違って少しさぐられているような感覚に陥る。
少しして飽きたのか手は収まったが、どこか納得していなさそうだった。
「ほらこの断面を見ろ。店先に置いてあった剣でこれだぞ? 本物を持たせたらどうなるか…」
「オヤジがそこまで言うのは珍しいな。俺の子供だからって贔屓しなくて良いんだぞ?」
「俺がそんな事で贔屓する訳無いだろ! まったくお前は……しかもあの子、鍛治も出来るだろ?」
こちらを見ながらそう言ったおじいさんの目線を追うようにして、両親の目線が俺に刺さる。
その目からは『え? 出来たの?』と思って居るのが丸分かりで、エルピスとしてもいままで秘密にしていた事が急に暴かれて驚きを隠せない。
隠蔽系統は完璧だし、それは両親が気付いてない事を考えても確実だ。
なら目の前の相手はスキルでは無い何かでエルピスに鍛治能力があると見抜いた訳で。
ーー全く怖い老人だ。
そんな事を思われて居る当の本人は、自慢げに鼻を掻きながら嬉しそうにしていた。
「初めて見抜かれましたよ、正直びっくりしました」
「人を見る目はあるからな。伊達に国外にまできて弟子取ってないってわけよ」
「さすがですね」
こんな感じで会話をしながら、エルピスは中程から切れた剣を収納庫から出した適当な魔物の素材と混ぜ合わせ、急ごしらえではあるが剣を作る。
作るとは言っても鍛造している時間はないので、錬金の力を使って魔力を代用して無理やり刃物として練り上げている形だ。
そんな方法で作ったからか剣はものの数秒で出来上がる。
性能面で言えば昨日戦った男の武器と同じくらいか。
現地で適当に作ったのにここまでの出来になったのは、龍神になったからだろう。
「さてオヤジさん。悪いけどお父さんとお母さん貰ってくね。あとこれあげる」
「いや良いけどさ……ってなんだこの剣!? え!? ちょ! この剣の作り方教えーーっ!!」
作りたての武器を押し付け、後ろで何かを叫び出したのを無視して、エルピスは両親の手を掴み走り出す。
目指すは──果たして何処に行けば良いんだろうか?
°
特に目指す所が無かったので転移魔法を使い家に戻ってきたエルピス達。
椅子に座りニコニコと満面の笑みを浮かべながら、何をしてくれるのだろうと期待して居そうな両親に紅茶を出す。
それからささっと料理を作り両親の目の前に出すと、エルピスも近くの椅子を自分の所まで持ってきて座る。
フィトゥスと一緒に作った事もある料理だ。
その時と同じ味を完全に再現はできないだろうが、食べられる味ではあるはず。
「これはなんていう料理なんだ?」
「まぁ良いから、ちょっと食べて見てよ」
エルピスがイロアスとクリムに出したのは、米と味噌汁と魚だけで構成された良くある一般的な日本食だ。
お粗末にも料理が上手いとも言えず、調理実習の時にも他の人頼りで殆ど料理をしてこなかった所為で味自体は全くだが、そこは素材に全てカバーしてもらった。
そこまでは不味く無いだろう…そう思いながらも、エルピス自身も箸を手に取り料理を食べる。
別に話すだけなら料理を作らなくても話せるが、面と向かって親と自分の生い立ちについて喋るなどただの拷問だ。
なのでこれが一番いい方法だとエルピスとしては思う。
「なんだか米の原産地の料理とよく似ているな。美味しいよ」
「フィトゥスに教わったの? ちゃんとできてて偉いわ」
エルピスの目の前で一瞬で消えていく料理に内心驚きながら、おかわりを要求してくる二人の器に食材を盛り付ける。
この時間帯であの場所に居たから、恐らくお腹が空いて居るだろうという勝手な決めつけで作った料理を、なんの文句も言わずに食べてくれる両親に心の中で感謝しながらエルピスはゆっくりと口を開く。
「──ねぇお父さん、お母さん」
「ん? なんだ?」
「……俺ってさ……ちゃんと二人の子供として、しっかり出来てる?」
エルピスがこの話題を出すと思って居なかったのか、ぽかーんとなって居るクリムとは対照的に、イロアスは何処と無く察して居た様な表情になる。
いつかは絶対にこの話題になる、そう確信して今まで過ごしてきたのはエルピスも分かっていた。
転生者という物がこの世界で忌み嫌われる存在で無い事は理解して居るし、エルピスが両親に転生者とバレて居ることももう既に知っている。
知ったのはだいぶ前なのに、いまのいままで引っ張ったのも、父さん母さんと呼んでしまうのも、二人にだけは見捨てられたくないと言うエルピスの稚拙な抵抗だ。
だがいつまでもそうしているわけにはいかない。
いつかは二人に話す必要があった。
そしてそのいつかは、今日だ。
だからエルピスは敢えて日本食を両親に食べさせる事で、いまここに居るのがエルピス・アルヘオでは無く日本人の晴人だと両親に改めて認識させたのだ。
「それってどう言う──」
「──隠さないで良いよ。俺が転生者だって事、お父さんもお母さんも知ってるよね?」
最初はまるで何も知らないと言う様な顔をして居たイロアスだったが、エルピスが両親が知って居る事を知って居ると伝えると、イロアスの顔色が変わる。
久々に見せる本当に怒った時の顔だ。
「ムスクロルの奴が言ったのか?」
「……うん、国王から聞いた」
「……あのバカがッ!!」
奥歯を噛み締めて怒りを露わにしたイロアスの影響で、森から逃げる様に飛び立つ生物達の声が聞こえてくる。
家のガラスというガラスも全てひび割れ、家の何処からか焦った様に、にゃーにゃー言いながら右往左往する猫人族の声が聞こえてきた。
これが頂点の生物の怒り、龍神になった今のエルピスでも冷や汗が流れるのを感じる。
だがそれを無視してエルピスは激昂するイロアスを宥めながら自信なさそうに言葉を発した。
「ねぇ父さん。俺ってちゃんと俺が出来てる? ちゃんと二人の子供になる筈だったエルピスに成れてる?」
「何を言ってるんだ、お前はお前だろう?」
呆れたような顔をして、その先は絶対に言うなというような雰囲気をしつつ、エルピスに対してイロアスはそういう。
次に続く言葉は『そんな事気にすんな』こんなところだろうか。
だがそれではいつまで経っても解決しない、自分が自分として生きていけるためには引くことなど許されないのだ。
「父さんならそう言うと思ったよ。ーーだけどそう言う事じゃないんだ。
例えば俺が、二人の子供として生まれたのは、本来あるべき道筋じゃ無くて、突発的な、本来ならこうなるべきじゃ無かった事なんじゃないかって、本来なら今頃ここには俺と違う本物のエルピスが居て、二人の前で子供らしい笑みを浮かべながら楽しそうに生活して居たんじゃないかって」
口から言葉が漏れるほど、目尻が熱くなり涙が流れ出す。
こんなに泣き虫になってしまったのは、両親からの愛を知ってしまったからだ。
元いた世界では理不尽な事で怒られ、殴られ、追い出され。
誰より家族の温かさを求めた自分を、二人は心良く迎え入れ自らの子供として育ててくれた。
その愛情を裏切る様なこんな行為したくない──だけど、ここでこの事を伝えないと、このままではズルズルと伝えたかった事も聴きたかった事も、言えないし聞けなくなる気がしたから。
だからエルピスは涙を浮かべながら、二人に心の中を全て曝け出し伝える。
それに対し意外にも先に言葉を発したのは、イロアスではなくクリムだった。
「貴方が貴方だったから、私は心の底から愛する事が出来た。
確かに私をあんまり困らせてくれなくて、不安に思った事もある。けどそれすら帳消しにする程、私も貴方から愛情を貰った。
それはイロアスだってそうだし、メイド達だってそう。フィトゥスなんて特に良い例よ。だから貴方は自分のした事、自分が生まれてきた事をもっと誇りなさい。貴方は私達の可愛い可愛い子供で、一番の宝物よ」
いつになく真剣な表情でクリムはそう言った後に、大きく腕を広げる。
その意図を察したエルピスは、泣きながら向かいの席に座っているクリムの下まで歩み寄り、力いっぱい抱きしめる。
優しく──何時もの様に力強くでは無く優しく抱きしめられ、更に涙は溢れていく。
「クリムに言いたい事全部言われちまったな……まぁなんだ、エルピス。そんな細かい事は気にすんな。
お前が前世でどんな生き方をして、どんな食べ物を食べて、どんな生活を営んでいたかは俺には分からないが、ただ一つ言える事はお前が俺達の子供で良かった。それだけだ」
抱き締められているエルピスの頭を軽くぽんぽんと叩きながら、イロアスはそう言った。
何時もとは違う少し荒々しい喋り方だが、お父さんの真意がより伝わってくる。
どれ程自分の事を思ってどれ程愛してくれたのか。
親になった事もないエルピスでは、それは分からない。
ただこの状況で二人に向ける言葉だけは、浮かんで来た。
だからエルピスはそれを言葉にする。
この世界に生まれてきてから発した全ての言葉と、これから発するであろう言葉全てを足して、ようやく足りる程の感謝の言葉を。
「お父さん、お母さん。僕を産んでくれてありがとう」
両親からの受け止めきれない程の愛に対するちゃんとした答えは、まだエルピスには分からない。
だから今は、仮の形ではあるが感謝の言葉で二人の愛に応えよう。
これで足りるとは思わない。
だからこれからも二人の子供としてーーエルピスとしてこの世界を生き抜き、幾多の経験をして人生を学び二人に相応しい子供に成れたなら、その日こそまたもう一度感謝の言葉を伝えようと心に決意する。
だからそれまではもう少しだけ……もう少しだけ甘えよう。