瀬戸内君と逃走
一時間にも満たない、ほんのわずかな時間。
そんなわずかな時間的で、私の世界はがらりと変わってしまった。
皮膚と皮膚が、ほんの一瞬触れあっただけ。
それなのに、その一瞬で、私の十七年間で築きあげた価値観が、がらがらと音を立てて崩れ落ちてしまった。
「……あれ? どうしたんです? 舞子先輩、急に真っ赤になって」
「い、いや、何でもないよ! ほら、最近急に夏らしくなったし! 暖かくなったから、ほっぺたが赤くなっちゃったのかなあ!」
慌ててすっとぼけてみたけど、琴音ちゃんには私の動揺なんてお見通しだったようだ。
ニヤニヤと笑いながら、こんな風に続けてきた。
「……そういえば、こないだ舞子先輩のモデルした時から思ってたんですけど、舞子先輩の描くメディチくんって、日本人的って言うか………誰かに似てますよねー?」
………え?
言われて見て、自分の絵を見てみると……確かに、少し、美術室にある頭像とは違う気もする……。
「なんかー……舞子先輩と同じクラスの、某王子様と似てる気がするんすけど……気のせいすかね?」
ーー顔から火が出るかと思った。
「わ、私が瀬戸内君を、生首になんかするわけないでしょ!」
「あれあれ~? 私は、某王子とは言っても、瀬戸内先輩なんて一言も言ってないんすけどね~」
「………っ」
完全に、やぶ蛇だった。
「舞子先輩の愛しのヨカナーン……果たして、舞子先輩と接吻する日はいつのことかしらん?」
楽しげに続けられた言葉に黙り込む。
……まさに、今日だったなんて、言えるわけがない。
結局この日は、部活でも予備校でも気を落ち着かせられないまま、ただただ悶々として過ごしたのだった。
「……明日、瀬戸内君に会ったら……何て言おう」
夜、ベッドに入り、布団の中で一人決意する。
……明日。
明日、また、瀬戸内君に会ったら。
あのキスの意味を。
あの台詞の意味を。
ちゃんと聞いてみよう。
ちゃんと聞いて、私の正直な気持ちを伝えるんだ。
……そう、思っていたのに。
「……瀬戸内君、おはよう」
翌朝。寝付けずに腫れた瞼のまま、いつもより早い時間に教室に着くと、私以上に瞼を腫らした瀬戸内君が一人、自分の席に縮こまっていて。
「……ごめん……っ! 今野……本当に、ごめん……っ!」
それだけ言い残すと、ものすごいスピードで、教室を走り去ってしまったのだった。
「……今日の瀬戸内、いつも以上に残念度が増してないか……?」
「しかも、休憩時間が来る度、速攻でいなくなって、授業開始ぎりぎりまで戻ってこないしな……あいつ、腹でも壊してるのか?」
「朝から顔色も悪いしな……もしかしたら早退させた方がいーかもな……相当無理してんな、あれ」
……ごめんなさい。それは全部おそらく、私のせいです。
瀬戸内君の友達の会話を聞きながら、私は一人ため息を吐いた。
休憩時間になるたび、瀬戸内君に話しかけようとしているんだけど、私が瀬戸内君のところに向かうより早く、瀬戸内君がどっかに行ってしまって、結局まともな話ができてない。
明らかに避けられているその様子に、正直、結構傷つく。
……い、いや、でも、まだほら、半日しか経ってないし。
休憩時間とか、朝をのぞいたら、10分くらいしかないし。
きっと瀬戸内君は、昼休みとか放課後とか、そういうまとまった時間に話をしたいと思っているだけなんだ……!
秘かにそう自分に言い聞かせながら、昼休みまで耐えた。
「ーー悪い、今野。昼休みの間、少しだけ二人で話せる時間をもらえるか?」
だけど、昼休みに私が待ち望んでいたその言葉をかけてくれたのは、瀬戸内君じゃなかった。
「……なんだ? 大林? 今野に告白か!?」
「お似合いだぞ、お前ら~。 特に身長的に。クラスで一番背が低い男子と、クラスで一番背が低い女子の、ミニアムなビッグカップル誕生だな!」
「……うっせえ! そんなんじゃねえよ!」
「照れるな、照れるな……なんだかんだいって、大林はぎりぎり160はあるもんな? 140そこらの今野と並んだら、ある意味理想的な身長差じゃね?」
「よかったな、大林……お前の身長で理想的身長差満たしてくれる女、今野くらいしかいねーぞ」
「だから、違ぇっつってっだろ!! ……今野悪いな。俺のせいでお前まで、恥かかせて」
「あ……いや、その……大林君が悪いわけじゃないから、気にしないで?」
「ひゅーひゅーっ! よかったな、大林! お前の彼女、けなげで、優しくて!」
「お前ら、もういい加減黙れよ! ……行くぞ! 今野! ……他の奴らは着いて来たら、全員ぶん殴るからなっ!」
怒れる大林君に連れられるがままに、私は空き教室へと移動した。
「……えー、と。大林君、私に何か話って?」
「……言わなくても、だいたい予想はついてんだろ」
……予想はついて、いる。
だけど、あまり言いたく、ない。
「……昨日、俺達が帰った後、瀬戸内と何があった?」
瀬戸内から、私が避けられている理由なんて。
「………なんで、私と瀬戸内君に何かがあっただなんて思うの……?」
「瀬戸内があんなにぶっ壊れる理由なんて、お前以外にあるわけがねぇだろ。……このまま一人で悶々とさせてるより、いっそきっぱりフラれるかなんかした方が、瀬戸内にとっても良いかと思ったんだが……逆効果だったか」
……大林君の言う意味は、よくわからないけれど。
多分、私が全部ちゃんと話すまで、大林君は私を解放してくれない気がする。
だったら嫌でも、思い切って言うしかない。
「瀬戸内君に……キス、……されました……」