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人魚姫は遥か遠く

作者: かっぱまき

 寄せては引いてを繰り返す波の音だけが響く空間に、一人の少女が立ち尽くしていた。

 水に足を浸けた彼女の輪郭は滲んでいるように見えた。


 ――パシャンッ


 突然、空間に小さな音が木霊した。次の瞬間には、そこにもう誰も居なくなっていた。

 ただ波紋を伝える水面だけが、その場に彼女が存在していたことの証明だった。



 水流に乗って海を揺蕩うウロは、水面を見上げて小さく溜め息を吐いた。口を開いても泡も出ないことが、彼女には何だか虚しく思われた。


 虚は不思議な生き物だった。何処から来たのかすら分からないが、気付いた時には彼女はもうそこにいた。

 虚は海流を読むことや水に体を溶かすことが得意だった。そのような特性を持つ代償か、彼女は海から離れることが出来なかった。

 海から数秒離れただけで体の水分が失われて動けなくなってしまうのだ。しかし、逆に言えば体の一部でも海水に触れていれば良いので、彼女の専らの日課は海に足先を浸けて辺りを眺めることだった。


 本人は自分のことを人魚の様な崇高な存在ではないと言う。しかし、虚が彼女に似た存在に会ったことがないというのも確かであった。

 だから、虚を見た者が彼女を人魚のようだと思ったのも無理のないことと言えた。


 そして、そのことよって、彼がこの海を訪れたことも必然だったのかもしれない。



 彼が虚の前に初めて現れたのは、今から一月ほど前。その日は生憎の曇天だった。


 いつものように海に足を浸けた虚は、陸地を眺めていた。海の近くなので地盤の関係か建物は少数だったが、彼女はそれらを見ることを楽しみにしていた。

 海から離れることが出来ない虚にとっては、そこから見えるものが世界の全てだった。

 ……その小さな世界に立ち入る者が存在した。


 サクサクと地面を踏みしめる音を聞いた虚は、驚いて顔を上げた。

 この浜辺を訪れた者など、彼女の記憶のなかでも片手で数えられるほどしか居なかったのだ。原因は遠くから虚を見た人が立てた噂なのだが、それは彼女の知るところではない。


 彼女の視界に映り込んだのは、長髪の似合う一人の青年だった。長い髪を緩く縛り後ろに流しただけの髪型は、彼の持つふんわりとした雰囲気と相まって彼を不思議な存在に見せていた。


「……ほんとに居たんだ」


 虚を見た青年が呟いた言葉は、静かな空間に不思議と良く響いた。


「どういうことです?」

「あ、ごめんねぇ。いきなり失礼を」

「いえ、別に構いませんが。ところで貴方はどなたです?」


 青年は虚の質問に少し考える素振りを見せると、悪戯っぽく笑って人差し指を口元にあてた。


「僕はミチ。人魚姫のその先を探す人とでも言っておこうかな」

「……そうですか」

「おや、反応が薄いねぇ」

「そうですか? これでも驚いているんですけど」

「見えないなぁ」


 のんびりとした迪との会話は、今日初めて会ったとは思えないほどに心地よかった。


「ところで、先ほどの言葉の意味を尋ねても?」

「あはは……。こんなこと言ったら笑われちゃうかもだけど、子供のころに聞いた人魚姫の話が忘れられなくてさ。だけど、お話は『めでたしめでたし』で終わっちゃうでしょう? ……でも、それじゃあ、つまらないじゃない?」


 恥ずかしそうに語りだした彼の言葉は、驚くほどに虚の心に響いた。かくいう虚も人魚姫の話の虜になった者の一人だったから。まあ、彼女が憧れたのは「王子様との恋物語」ではなく外の世界の情景だったのだが。


 海というのは色々なものが溶けている。物質的なものだけではなく、遠く離れた地で語られた噂話だって彼女の耳には届いてしまうのだ。海は繋がっているのだから。

 それらの中で虚のお気に入りだったのは、幼い子供を寝かしつけるために語られるお話の数々だった。

 同じ話でも語る人によって違う世界を創り出すそれは、虚を魅了してやまなかった。

 中でも人魚姫の話は自分に良く似ていて、虚はその世界に自分を投影して考えては海の外の様子を夢見てきた。

 そんな虚だからこそ、次に続く言葉は簡単に予想がついた。


「だから、続きをですか。……ですが、残念ながら私は人魚ではありませんので、貴方の期待には応えられないかと」

「だとは思っていたよ。でも、君以上に人魚に近い存在の噂を僕は知らない」


 がっかりするかと思ったのだが、想定内だったらしく迪は笑顔で告げた。

 それから徐に右腕を目の高さに掲げた迪は、途端に慌てたような表情になった。


「しまった、もう行かないと」


 どうやら用事か何かがあったらしい。もう迪が帰ってしまうということに、虚は一抹の哀しさを覚えた。想定内とはいえ、人魚ではない虚の元に彼が再び訪れる理由はないだろう。


 しかし、虚の予想は裏切られる結果となった。

 迪は、次の日もまた次の日も虚の小さな世界に現れたのだ。

 ……一月も経つ頃には、二人の関係は友人と呼べるものになっていた。



「虚、『クラゲ』の話は聞いたことあるかなぁ?」

「はい。詳しくは知りませんが。……ここは噂が集まる場所ですから」


 二人が話すクラゲというのは、皆が普通に思い浮かべる海月とは別物だ。形が似ているからそう呼ぶ人が多いというだけのことである。


 虚があまり知らないと聞くと、迪は少し得意気に説明を始めた。

 彼の話をまとめると以下のようになる。


 曰く、クラゲは彼らが望むものを差し出すことで一つだけ願いを叶えてくれる。


 正直なところ、虚にとっては今の生活が何より楽しかったので、特に願いはないとそれ以上は興味を抱かなかった。

 直ぐに別の思考に移ったので、虚が迪の複雑そうな表情に気が付くことは無かった。


 しかし、この話をした翌日から迪が海岸を訪れることはなくなった。



 初めは、都合が合わなかったのかなとしか思わなかった。今までだって、欠かさず毎日来ていたわけではない。

 しかし、迪の姿を見なくなって三日ほどたった頃、流石に可笑しいと感じるようになった。

 その時、虚は迪の話を思い出した。


 クラゲに願いを叶えてもらえば良いのでは?


 そうと決まれば、虚は海に体を溶かした。こうした方が、海と一体化出来て情報を集めやすいのだ。


 求める情報は直ぐに見つかった。

 この近くの岩場の近くでクラゲを見たという噂があったのだ。


「運も味方というやつですかね?」


 虚は小さく呟いて、早速岩場に向かうことにした。



 噂の岩場は海に面していたので、虚はその近くの海に溶けながら周囲を観察することにした。

 この辺りで目撃されたということは、間違いなく近くに居る筈なのだ。


 暫く無言で岩場をじっと見詰めていると、白いぷにぷにした物体が現れた。妙にツヤツヤした表面は、光を反射してその存在を幻想的なものにしていた。

 虚は静かに岩場に近付くと、声を掛けた。


「あのー、貴方がクラゲなのです?」


 ぷにぷには虚の方を向くと、小さな声で答えた。


「確かにそう呼ぶ人も居ますねぇ。……何かお願い事でも?」

「はい。私の友人の……、いえ、彼に会うために海から出られるようにしていただけませんか?」


 最初は「彼のところへ連れていって」と願うつもりだったが、少し考えて止めた。そんな他力本願な方法で再会しても、虚は素直に喜べない。


「なるほど。承りました」

「ありがとうございます。……それで、私は何を差し出せば?」


 虚が尋ねると、クラゲは初めて少し迷う素振りを見せた。


「……僕も一緒に連れていって欲しい」

「そんなことで良いんです?」


「……既に望むものはもらっているからねぇ」



 虚はクラゲを掌に乗せていつもの海岸まで泳いだ。


「僕を頭の上にのせて? 僕は君より乾燥に強いから守ってあげられる」

「分かりました」


 虚はクラゲの言葉に従うと、恐る恐る海水から足先を離した。


「……」


 とても長く感じる数秒を経ても、虚の体が水分を失うことは無かった。


「これで、遠くまで行けるんですね」


 虚は呟いて、一度振り返ると海の方に目を向けた。


「わぁ……」


 いつの間にそんなに時間が経っていたのか、辺りは夕焼け色に染まっていた。海に映った太陽と空にある太陽が、この時間だけは一つに寄り添いあっていた。仲良くくっついた太陽たちは、双子のように見えた。


「ねぇ」


 視線を海から戻して、砂浜を見つめる虚の耳が小さな声を拾った。浜辺には虚がいない間に誰かが来たのか、小さな砂の城が作られていた。その近くを蟹が横歩きで通り過ぎていく。


「何です?」

「僕が本当は君のよく知る人物だって言ったらどう思うかなぁ?」

「……もしかして、貴方は迪なのです?」


 あまり悩むことなく虚の口からその言葉が零れた。たしかに、喋り方や纏う雰囲気が似ているとは思っていたのだ。


「え?」


 クラゲは驚いたように言うと、虚に目を向けた。頭に乗っているので、自然と見下ろすことになった。

 しかし、クラゲの位置からは虚の表情を窺い知ることはできない。


「……もし、そうだとしたら?」


 再び小さな声で尋ねられた言葉に虚は笑みを浮かべた。虚は海まで歩くと片足を水面につけてからクラゲを手に持った。二人は至近距離で見詰め合うこととなった。


「お帰りって言います!」


 今度こそ目を見開いたクラゲは、一拍置いて答えた。


「ただいま!」




 人魚姫は遥か遠く、そこにはお話に憧れを抱いた二人がただ存在するだけである。


(完)

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