【然るべく 水玉模様と 雨粒と(終)】締めくくり
泣きっ面に蜂。
私ももう入学してから二か月も経つと、手の抜き方を覚えてくる。この授業は多少のサボりは大丈夫だ。この先生は注意をしない。これには手を抜いても良い。やらなくても良い。
だからと言ってそれに甘んじずに常に全力で臨むのでは体力も気力も持たなくなってしまう。全力疾走とはし続けるものではなく、また若い者が何かをさぼるというのは然るべきことであるということを明記しておこう。大学や教授、その他の全ての義務に対し、この時期の雨こそが泣きっ面であり、我々の怠惰な生活や気持ちは蜂であり、刺すならば泣きっ面にしておこうというタイミングの計りあいが六月にはある。雨脚が歩みを強める度に私の足は反比例して止まっていく。そしてあまりにも長く歩みを止め続けると、黴が生えてしまうということも六月からは学べる。サボり癖は黴のようにどこからともなく現れてまとわりつく。そしてその黴はサボり癖だけではなく、良心までも蝕み、サボってしまう自分への嫌悪を駆り立てる。
歩み方とは即ちタイミングの計り方だ。全力ではなく、しかし黴が生えないように適度に動かなければならない。浮足立った季節との向き合い方、その血圧が下がり冷静になった頃の付き合い方。そしてこの時期、私は四月の入学当初の心情とは対極にあるように思える嫌悪という非常に悪い足元で物事に向き合っていくことになる。
「蕎麦ばっかり食べてるうだつの上がらない不景気なヤツがいるなぁ」
「バカが単純すぎる食い物をバカみてぇな顔して頭悪そうな食い方してるからそれが自らのバカの露呈に拍車をかけているとも知らずにやってるバカがいる」
合言葉のように悪態をつきながら良崎が私の隣に腰掛ける。この時期、食パンは人間よりも黴の脅威にさらされている。それを主食とする良崎もまた黴との戦いを続けている。最近では彼女の姿を見ない日も増えてきたし、彼女に関する往来の耳の痛くなるような話も減ってきた。出席日数は平気なのか。
それでも目を引く美貌の良崎の登場で食堂のざわめきの色が少し変わってくる。しかしその本人はどこ吹く風、全く意に介さずビニール袋からパンを取り出し、無造作に大きく開けた口に突っ込み、むしゃむしゃと咀嚼している。窓の外では鈍色の空から垂れる銀の糸のように雨粒が降り注いでいる。
「わたし、やっとわかったわ。バラエティー番組でやってる激痛足つぼ刺激だとかマッサージとか」
「ん?」
「手厳しい非難の声すら今のわたしには心地よいわ。きっと一回痛いからこそ、そのあとの快感が極楽で尊いのね」
やはり本人は全く意識していないという訳でもないようだ。痛いだとか気持ちがよくなるだとか、いくらねじまがった性格をしているにしても意識しなければそんな感想が出てくるわけもなく、ましてや出てきた感想が痛いだ。しかし、良崎はそんな生まれ持った能力で手に入れた座り心地の悪い玉座との付き合い方を見つけたのだろう。これもまた然り。良崎は一喜一憂し、そしてそれに対応し、対応の先にある飽和、そして嫌悪までたどり着きそしてそれをハイジさんがいつか言った良崎の強さで克服しつつある。その内実はともかく、経験をしたという点では私よりも幾分か何かを悟ったように思える。
「結局、わたしが一番きれいでかわいいってことよね。だからひがまれるってことでしょ」
けだるい吐息のあとに芝居がかった仕草で掌を蝶のようにヒラヒラと見せつけるように振るった。
「そうだとしても、自分では言わないのが」
「美徳」
私は無言の肯定をして蕎麦を啜った。斜向かいに座っていた女学生が良崎の大胆かつ本質をとらえた言葉に身じろぎしている。しかし、まぁなんだ。それこそ良崎・リーベルト・アンナだろう。叩かれる僻まれる責められるならば、退かぬ媚びぬ省みぬ、むしろ絶対に負けないと強気に宣戦布告をお見舞いしてやるくらいが良崎だ。慣れ、の先の、物事の見方を変えて多角的に本質を見定め身の振り方を考えるなれの果て。
「結局は物事の視点の切り替え次第よ。どんなに耳の痛いことも、それを克服した後の快感のためにある、ってことで」
と、食パンを一気に頬張って言葉を断つ。
「お前はすごいな」
聞こえたら聞こえたらでいい、聞こえなかったら聞こえなかったでまたそうでもいい、と、蚊の鳴くような声で呟いて窓の外に目をやった。私はまだ良崎のような人に嫌われる経験をしたことがない。しかし、今でこそそう思えても想像を絶する苦しみと戦って勝利してこそ克服があるのだ。嫌われるとは少し違っても、全く何もない虚無の人生を送ってきた私がハイジさんや小林氏の奇行によって振り回されて辛い思いをしても今ではいい思い出だと思えるように。物事は視点次第で克服することも出来る。
ぴっちゃん、と蕎麦のつゆに何か水滴が落ちる音がする。室内だから雨粒ではないだろうと天井をに目を向ける。良崎もつられて首を上方に傾ける。
「然るべく 水玉模様と 雨粒と ハイジ」
天井に赤い字で大きくそう書かれている。私達以外は誰も気づいていないようだが、随分と恐ろしい。まるで天井に残されたダイイングメッセージのようだ。
「今回ばかりは全く意味が分からないわ」
平気な顔で次のパンを頬張る良崎。
昔、何かの本で読んだことがある。雨は水滴であり、こうやって腰かけたり傘をさしている時こそ、雨粒の落下の速度の残像で糸のように細長く見えるが、ジャンプして雨粒と同じ速度で落下すると雨粒はちゃんと水滴の形をしていると。
きっと、ジャンプして視点を変えてみれば、鬱陶しく思える雨粒さえも、紫陽花を彩る水玉模様に見えるのだろう。そんなことは、今の今まですっかりと忘れていた。
「良崎」
「何?」
「ちょっと外に出てジャンプしてこい」




