【あわるもの 良しと嘯く 春浮かれ】第4話 ツッコミ王選手権
十八、
「こんにちは。えぇー、なんと二十回目、ということで大分長くなってきましたが、ここまでついてこれているのでしょうか(笑)。今回はハイジこと陣内一葉と」
「水原銀子でーす」
「と、はい。まぁ、いつものメンバーでお送りします。あ、違う。今回からなんと」
「はい!」
「新入生がね。良崎=リーベルト・アンナです。拍手でお迎えください」
「良崎アンナです」
「何やってるんですかハイジさん」
「あ、そう。曾根崎もいます」
「そうじゃなくて」
「ッチィッ! おいカメラ止めろ」
ハイジさんが強い口調でそう命ずると、水原さんは何も言わずに三脚のカメラを操作した。
「何ってオーディオコメンテータリーだよ」
ハイジさんは眉間に皺を寄せる。
「何かの演劇のですか」
「これだって」
良崎が差し出したDVDのパッケージには『実録トラファルガー海戦』とマジックペンで書かれている。
「さっぱりわからないです」
「だから『実録トラファルガー海戦』じゃないの?」
「『実録トラファルガー海戦』だ」
「『実録トラファルガー海戦』よね」
この波状攻撃はなかなか応える。良崎、お前まで……。馴染むのは構わないが、常識人としての線と言うものを曖昧にしてはいけない。
「お好きなんですね、『トラファルガー海戦』」
「いや、別に」
別に私はもうこのサークルで演劇が出来るとは思っていない。そもそも演劇に対するモチべーションも低いものだったし、ハイジさんの奇行にも慣れてきてしまったので心は決して許さないものの大げさに驚くことでもないのでそれはもうそれで構わないのだが、私が異議を唱えたいのはこの状況だ。
私が部室にいないのに、勝手に三人で『実録トラファルガー海戦』のオーディオコメンテータリーを始めたことだ。何故仲間外れにするのか。
「研究とかあるからさ。フットワークが軽くないと出来ない研究をやってるんだよ」
とハイジさん。未だに何かを研究するつもり、というか研究をしていたことに驚きだ。
「その分野ではハイジさんは有名ですからね」
続く水原さん。
「世界の愚か者百傑とか?」
「現時点では俺はまだキース・コバーン(ザ・サード)に遠く及ばないから俺がランクインするのはあと50年かかる。それに世襲には消極的なランキングだからな」
良崎のジャブを楽々かわす。
なんで、私以外はそんなに予定調和みたいにきれいな形で会話が流れるのだろう。私、やっぱり馴染めていないのかもしれない。
「あ、これハイジさんじゃない?」
水原さんが画面を指差すと、確かにハイジさんがイギリス海軍の恰好をしてエキストラ出演している。バイトとは一応、俳優業のようなものなのだろうか。というか、実録ものなのになぜハイジさんは出演しているんだ?
「そう俺だよ。エキストラ足りなくてさ」
「へぇー、ちゃんと俳優業みたいなことやってるんだ、って実録ものじゃないんですか!?」
と良崎。私のポジションはもう危うい。
「いやぁ~、俺は本当はカメラのこっち側として行ってるんだけどねぇ。サークルがサークルだからかあっち側のことも多くなってきちゃって最近困ってるんだ」
「最近どんなのに出ました?」
「『心を開く・人との付き合い方と秋の夜長のランナウェイズアットダコタ・ファニング』」
「じゃあ、それ見ましょうよ」
寂しさからつい無理やり会話に割り込んでしまう。
「それは『実録トラファルガー海戦』よりも面白いんですか?」
良崎が水原さんに尋ねるが、水原さんも首を横に振り、わからないとジェスチャーする。
「『実録トラファルガー海戦』よりも面白い可能性があるんなら、そっちがいいです」
よっぽど『実録トラファルガー海戦』が嫌だったらしい。
「オーディオコメンテータリーないけどいいの?」
十九、
ジャァアアアァァン
ジッダダダダンダンダンダンダッタッダダダダン ダダダダンダンダンダンダッタッタダダダン
「…………」
割れてしまうほど古い音源、白黒で躍動する、眉間に皺を寄せた長髪の男たち、熱狂するオーディエンス。世界中が鬱々をし始めた1960年代、イギリスで産声を上げたロックの教科書が、今ここに、21世紀の日本に蘇る。
――ただのライブの映像だこれ。
「ただのホワイトルームじゃないですか!」
良崎の鋭い声と共に拳がハイジさんの頬にめり込んだ。
「ハイジさん本当に出てるんですか?」
「いや、これオープニングだから」
『この番組はニッポン最後のニンジャ魂をクリエイトする、マユセイユポリスタクシーと』
ライブ音源をバックに、提供を読み上げる声は確かにハイジさんのものだ。
『ナチュラル・ボーン・キラーズでお馴染み、ミッキー&マロリーと、ご覧のスポンサーの提供でお送りします』
パッパーパラパパパー
何処か昭和初期を感じさせる勇ましいラッパの音と共に画面は切り替わり、またも白黒へ。
『時は明治、ここで一つの痛ましい事件が発生する。そう、猫がビールに酔って水瓶に落ち、溺死したのである。かの有名な『吾輩は猫である』の猫である』
画面は水瓶を映し、画面下には白い字幕で「マジです」と書いてある。それを見た良崎は「へぇえ!」と感嘆の声を上げた。確かに、あの名前のまだない猫の物語は、あの有名な書き出ししか知らなかった。むしろ、あの文豪が千円札から姿を消した今、そもそも『吾輩は猫である』を知らない人間も多いのかもしれない。
『訃報を聞いたこの二人の男。一人は名前を与謝野という。一人は陣内という。与謝野は禁酒を誓い、陣内は酩酊したまま死ねるのは理想的であり本望とまで述べた。ここに、第一次与謝野陣内口論が勃発した。ココニ、第一次与謝野陣内口論ガ勃発シタ』
「カタカタは歴史を感じさせるよね」と字幕。きっと、オーディオコメンテータリーでこれを言う予定だったのだろう。
『その一部始終を見届けていたのは陣内の息子、後の陣内千葉である。千葉は両者の互いの内面を抉る口論を記すことにより、陣内式セミナーの基礎を完成させる』
確かに、度を過ぎた口論は相手の内面を激しく抉る。相手も敵に遠慮などしないのだから、自分でさえ気付いていないことに悪口で気付かされることもある。しかし、両者にそれほどまでに激しいダメージを負わせる口論というのはそれだけ相手を知っているということでもある。ケンカするほど仲が良い、とはよく言ったものだと私は感心して顎に手を当ててしまった。
珍しく理にかなっているではないか。この陣内と与謝野は良い友人同士であり、その友情はケンカ仲間として育まれたのであろう。
『貴様のような阿呆には何を言ってもわからんだろうがな』
ヒゲを蓄えた、筋肉質の迫力たっぷりの男が怒鳴っている。字幕には与謝野(初代)とある。
『うるせぇバーカ! ヒゲ! デブ!』
それをからかうように、指さしながら、ぴょんぴょん跳ねているハイジさん。字幕には陣内(初代)とある。これがハイジさんの脈々と受け継がれてきた血の力か。
「な、本当に出演してるだろ?」
とハイジさんは得意げに嘯くが、あれは本当に演じているのだろうか。素ではないのか。
『デブでヒゲじゃだめなのかよ! それにデブじゃねぇよ筋肉だし!』
『デブだバーカ! ゴミでも食らえバーカ!』
与謝野(初代)に、囲炉裏の灰を投げつける陣内(初代)。
『では、自分のことと相手のことをよく知るために、まずは短い時間でシンプルに相手を罵ってみましょう。3、2、1、どうぞ』
促すようなポーンという間の抜けた効果音。
「クソ馬鹿野郎」
「似合わない服」
「ペテン師」
「モンスター」
「ダメ人間界の恥さらし」
「バカ殿とバカ大佐」
「ゴスロリという忘れたい歴史を抱いて死ね」
「負け戦」
「お前は、薄っぺらい人間だなぁ」
「悪性ファッションモンスター」
それをゴングにハイジさんと良崎による罵詈雑言の嵐。水原さんは人が良すぎて先輩と後輩を罵ることが出来なかったのだろうが、「似合わない服」と「負け戦」と「バカ大佐」の流れ弾で大いに心にダメージを受けたようだ。私は語彙と度胸が足りなくて言うことが何も出来なかったが、それを察して気の毒と思ったのか水原さんがそっと「曾根崎心中」と言ってくれた。罵られたのに何故か嬉しい。
すごい、すごいぞハイジ式セミナー! 罵られても気分が悪くならない!
二十、
『これでお互いの第一印象がわかりましたね。次は』
良崎の息がかなり荒れている。ハイジさんが製作者だという利を得てあげた戦果だ。
ピーン、ピーン。
聞き覚えのある効果音。テレビに目をやると、画面上部に『臨時ニュース』の文字が。
『メロス、激怒する』
メロス、激怒する?
『DVD再生中なのに臨時ニュースに見入ったあなたはバカです』
「このクソテレビー!」
良崎がテレビに掴みかからんと立ち上がったが、ハイジさんに「まぁまぁ」となだめられ、「お前が作ったんだろ!」とハイジさんを一発殴るだけに留まった。
『腹を立てることは、恥ずかしいことがあるということです。では、なるべく怒らないためにはどうすればいいでしょうか。方法は我慢する、開き直る、酒を飲むの三つです。それがあなたの今後のライフスタイルになるでしょう。それでは、楽しい人生を』
我慢する、開き直る、酒を飲む。
「リーベルトにはいい薬だな」
そう言われると良崎も困るようだ。
「気が短いのは自分でもわかってもますよ」
「二階から飛び降りたり小刀で指切ったりしないでね」
水原さんが優しくフォローするが、どうやら元ネタがわからないのか良崎は水原さんに訝しげな目を向けた。良崎はそれでも少しも機嫌を悪くしない水原さんを見習え。きっと、水原さんは我慢する、のタイプなのだろう。我慢をしすぎるのも体には悪そうだが、少なくとも我慢が自分の辞書にないよりは人間として数段成っているだろう。
「ちなみに、与謝野(初代)はこの後、我慢をするを貫き通したと聞いている。陣内(初代)は開き直って酒を飲み、酩酊状態で正岡子規達との野球で守備に就き、ライナーを受けて死んだとされている」
殿堂級の馬鹿だ……。
「それを聞いた与謝野(初代)は、『酩酊したまま死ぬ』を実現した陣内(初代)は尊敬に値すると、笑いながら涙を流したそうだ。彼は大往生を迎えるまで陣内(初代)の命日だけは陣内家を訪れ、酒を飲んで陣内(初代)と酌んだらしい」
馬鹿なのにいい話じゃないか。
「と、我慢を貫き通したとされる与謝野(初代)も陣内(初代)の命日だけは開き直って酒を飲んでいる。三つのライフスタイルのうち、どれか一つだけを選ぶのではなく、一つをベースに他をアクセントとして生きるのが最も賢明だと俺は思う」
「我慢してる……?」
「俺はすっげぇ我慢してるぞ良崎。例えば、俺は今年九月公開予定の『新・パトリオットホーク劇場版:転2012 乙型弐式改1/2』をもう見てる。俺はあっちこっちでそのネタバレをしたいのをすごく我慢してる」
「それは、我慢してください! わたしも我慢しますから絶対言わないでください!」
水原さんが懇願する。
「えーどうしよっかなぁ。まぁ、ちょっと言うとレイブンはまた死ぬよ」
見る見るうちに水原さんの目から涙があふれ出し、水原さんは転げ落ちるようにして顔を伏せ、しくしくと泣いた。
「もっといろんなネタバレしたい欲を俺は我慢している。例えばリーベルト。お前は200歳までは生きられない」
―――ッ!! ……?
「アンナちゃん、茶棚に『寿命が3年伸びる! 長寿カルシウムせんべい』があるから……うっ」
水原さんは嗚咽を漏らしながらもハイジさんのフォローを欠かさない。何が彼女をここまで我慢させるのだろうか。
「それから、水銀は明日も泣く」
泣かせているからな。
「曾根崎は別にない。あ、お前多分一回確定申告し忘れるわ」
「何もなかったら言わなくていいです」
「まぁ、こんなところだ。このDVDで何か分かったことはあるか?」
はい、と私は挙手をした。
「おぅ、曾根崎」
「口ゲンカの利点」
「はい」
対抗するように良崎も挙手。
「猫はビールで酔う」
おいおい、毒されてきてるぞ良崎。
「お前たちはダメだぁー!」
ハイジさんが喝を入れる。
「毎日集まっちゃあゴロゴロ、集まっちゃあゴロゴロ、サークルじゃねぇンだよ!」
―――ッ!!!???
「思ったことを口に出して言ってみろ! 発言の数だけ利口になるんだぞ! いいか、あのDVDはいわば間違い探しだ。間違いを挙げられた分だけ常識人と言うことになるぞ」
なんだとう。
二十一、
ハイジさんの発言はやはり少し狂っているが、常識人としてのアイデンティティがこれで保たれるのならば努力は惜しまない。
「はい!」
「じゃあ曾根崎!」
力強く挙手をすると、ハイジさんが回答者に私を指名する。
「DVDに臨時ニュースは入らない!」
「10ポイーンッ!」
10ポイーンッ! なんと甘美な響きだろうか。これもハイジ式セミナーの効果か。これを続けてポイントを重ねれば、もっと、もっと何かが、今の私以上の私が生まれる気さえする。
「あと、酒は飲んでも飲まれるな!」
「5ポイーンッ!」
「あと、陣内一葉って名前はありだとしても陣内千葉は流石ない! 地名!」
「30ポイーンッ!」
まだ45ポイーンッ! だ。セーフティリードには程遠いだろう。畜生、あまりにも映像が短すぎる。
「さぁどうする水銀リーベルト! このままだと曾根崎が初代ツッコミ王チャンピオンになってしまうぞ!」
ツッコミ王という称号はともかく、なんだかそんな煽りも心地よい。生まれて初めて、何かを賭けて追われる立場になったのだ。そう簡単に譲る訳にはいかない!
「明治時代にあんな映像は残ってない!」
「あっはっはっは! 10ポイーンッ! 見てみろあの曾根崎の表情! 『恍惚』!」
ハイジさんはどうやらツボにはまったらしく、聞いている方が愉快になるような声で笑う。
「はい!」
良崎の挙手。55ポイーンッ! 差を詰められる反撃の一手が来るか!?
「『新・パトリオットホーク劇場版:転2012 乙型弐式改1/2』でまたレイブンが死ぬんなら、アルバラデホも多分また裏切る!」
「裏切るのは正解なんだけど面白くないから2ポイーンッ! かわいそうだから水原に20ポイーンッ!」
アルバラデホ裏切る、が効いたのかいよいよ水原さんは号泣体勢に入っている。いきなり35ポイーンッ! 差まで迫られたものの、あの状態の水原さんからの追撃はもうないだろう。そして良崎に関しても、どうやらツッコミにおいては私の方が上手のようだ。というか、アルバラデホまた裏切るのか。それはさておき、ツッコミ王の称号は私のものだ!
「終了ー! 初代ツッコミ王王者は55ポイーンッ! で曾根崎!」
おぉ、勝ってしまった。たったの55ポイーンッ! は決して誇れる数字ではないのだろうが、55‐20‐2。水原さんにはダブルスコア、良崎に至ってはトゥエンティセブンスコアだ。
「じゃあ曾根崎、今日からツッコミ王として、サークルでは我慢することなくツッコミを入れていけ。頼りにしてるぞ、ツッコミ王」
ハイジさんがぽん、と優しく私の肩を叩いた。嬉しくて涙がこぼれそうだ。この人はふざけているようでありながら、自分の後輩達を制御する術を熟知しつくしている。そして、それこそ、口ゲンカになったら絶対に敵わないほど私達のことをよく知っているのだろう。
いいように扱われていると考えてしまうと興がそがれてしまうが、それでも私はおだてられてしまえば気分はどこまでも高ぶってしまう。この短期間でここまで私のことを理解するなんて……お前マジシャンかよ!
二十二、
昼休みの食堂で一人腰掛け蕎麦を手繰っていると、様々なものが聞こえてくる。
「うわぁ、ハイジの手下だ」
「テロリスト……」
最近では耳の痛いものばかりである。噂をしている本人たちは聞こえていないと思っているのかもしれないが、真正面にも横にも耳を傾けるべき言葉を発する相手がいない私の聴覚はワイドに聞こえる声の全てを拾える。自分の話声は相手にしか聞こえていないと思い込むような輩とは違い、私は客観的に人の話を聞けるのだ、お前たちとは違うんです。
「隣いい?」
「……良崎?」
突如現れた後光さえ放っているように見える美女は良崎だった。ハイジ式セミナーを受講して以来、良崎の心にも何かしらの変化があったのかもしくは私にツッコミ王の称号を譲ってしまった自分への戒めか、あの派手なクラゲのような衣装を着るのは辞めてしまった。最近ではTシャツにジーンズ、上着は脱いで腰に巻くという動きやすい翻せば暴力を振るいやすい格好をしていることが多いがそれでもその美貌は一際目を引き、数多の男子学生を地獄の淵へと叩き落としていると往来から盗み聞きで聞いている。小悪魔の顔をした鬼が島の鬼はさぞかし女子には嫌われているだろう。良崎に寂しがりの側面があるということは見学するサークルを早々にリストアップしていたことやとりあえず目立ちたい一心でゴスロリの服装をしていたことからも伺える。居心地が悪いということは容易に想像できる。
しかしそこに至るまでの経緯や各々の心境は違えど、食堂で一人ということには私も変わりなく、そこに加えて「ハイジの手下のテロリスト」であることから良崎は同志だ。
「いいよ」
「蕎麦、美味い?」
良崎の昼食はただの食パン五枚切り三枚をビニールに入れたもの。らしいと言えばらしいが毎日こんな食生活を送っているのならばどう間違ってもハイジさんの言うとおり良崎が200歳まで生きることはないだろう。
「蕎麦としても物足りず、腹の虫抑えとしては事足りる」
「そうやって美味い蕎麦美味い蕎麦って蕎麦を芸術品みたいに扱う人もいるわよね。確かにそういう蕎麦職人の打った蕎麦に比べれば、スーパーで売ってる一山いくらの蕎麦なんてそんなものでしょ。それに、この食堂の汁って全部金属の味しない?」
「金属で出汁をとっているのだと思うことにしている」
ふぅん、と自分の望んでいた意見に私がそぐわなかったことが気に食わないのか、機嫌が悪そうに相槌を打って良崎は食パンの耳をかじり始めた。器用に耳だけを先に食べ、後に残しておいた中心の白い部分に取り掛かる。ならば、予め家で切り取ってくればいいのに。
「良崎は実家暮らしか?」
「うん」
「ん? ということはド」
「ドイツではない。私は日本から出たこともないし、ドイツ人は母親で父は日本人」
「そうだったのか。そもそも本当にハーフだったとは」
良崎は肌も色白だが雪のように白く、ではなくあくまで色白の域、髪も烏の濡羽色とは行かないまでも黒い。顔だちも人並み外れて整ってはいるが、だからと言って外国の血が混じっていると思うような特別深い彫や高い鼻などの特徴がある訳でもない。ハイジさんがリーベルトという名前を口にしなければ考えもしなかっただろう。
「それは否定しないわ。良崎が父の姓、リー……」
「リーベルト」
「が母の姓。アンナは日本でもド……」
「ドイツ」
「でも通用するような名前ってこと」
リーベルトという名前がよっぽど嫌なのか、苦虫を噛み潰したような顔で述べるが、その苦虫を噛もうとする努力、即ち我慢を良崎=リーベルト・アンナも覚えてきたようだ。
「あ」
良崎が不意に声を上げ、隠れるように顔を伏せた。その目線の先に目を凝らすと、どこかのバーベキュー場で見た顔がこっちを見ている。あのポロシャツ、ジャージ、メガネにうだつの上がらない顔は『演劇部』きっての穏便派でありハイジさんファンの『演劇部』第31098代目会長、小林桜氏だ。ならば、良崎が隠れたくなるのも合点がいく。以前、良崎が『演劇部』の新歓コンパに行った際ハイジさんが『神輿戦車シェリダンM.G』で襲撃し、良崎を奪還しに行ったことがあった。諸悪の根源はハイジさんにあるのだが、自分の奪還という名目で襲撃が行われた以上、少なからず罪悪感は良崎にもあるのだろう。
私と目があった小林氏は少し気まずそうに、しかし嬉しそうに手を振った。私もそれに手を振りかえすと、小林氏は嬉しそうに歩いて行ってしまった。
「良崎にも気づいてはいたが、小林さんは怒っていないみたいだ」
「そういう問題じゃないじゃない」
「俺もあの襲撃の時はいたが、小林さんはむしろハイジさんの襲撃を歓迎しているように見えたぞ」
「そういう問題じゃないんだけど……。まぁ、いいのかもね。若気の至り、浮足立った春の珍事ってことで」
その若気の至りとやらが果たして『演劇部』の新歓に行ったことなのか、ならば何故それが若気の至りなのかはわからないが、本人が嫌がる以上勘繰るのは野暮なことだろう。
「しょうがないわね、春だもの」
「しょうがないな、春だから。あれもこれも、良い経験だ」
「『演劇サークル』に入っちゃったこともね。良しとしよう」
踏ん切りがついたように良崎が力強く言うと、何の前触れもなく食堂のガラスにパキンという音と共にきれいな穴が開き、私と良崎の目の前に一本の大きな矢が突き刺さった。その矢には手触りのよさそうな和紙が一枚括り付けられている。
「矢文?」
「そうね」
良崎はなんの躊躇もなくその矢を引っこ抜き、括り付けられた文を広げた。本来なら次の攻撃に備えてテーブルの下にでも身を隠しておきたいものだが、意図はわからなくともこんなことをする人間が誰かは私も良崎ももうわかっている。
「あわるもの 良しと嘯く 春浮かれ ハイジ」
単調な声で良崎が文を読み上げた。どうやら、俳句のようだ。ならば、季語は「春浮かれ」か。
「良しと嘯く春浮かれ。……確実に、聞かれてたわね、今までの会話」
私は肩の力を抜き、一つ息を吐いた。
「まぁ、いいんじゃないのか? 春だし」
「そうね。春だから良し!」