32.梅雨
「なあ」
このところ雨が続いている。
梅雨、梅雨だ。まだ梅雨入りは宣言されていないものの、どう考えたってもう梅雨入りしていると言ってもいいぐらい連日の雨。
「なあ、おい」
春に矢野に出会って、それから色々あって夢見ていた甘酸っぱい思い出になるはずのファーストキスをなぜか矢野という男に奪われ、その上告白までされてそれでも悪い気はしない自分に驚いたり。
「なあって」
口説き落としてみせるとまで言われて、それに対して考えてみると言ったり。思えばたった二か月ほどで色んなことがあったものだ。
そうこうしている間にもう梅雨だ。
「……おいこら、無視すんな真琴」
無遠慮に頭に乗ってくるでかい手の感触にも慣れてしまった。そんな自分にため息を吐く。
「なんだよ」
「真琴は、いつになったらうちに来るんだ?」
「……」
雨が地面を叩く音が静かな廊下に響く。
家庭科室へ向かう途中の廊下でこの質問を何回聞いただろうか。
「だから……そのうち?」
「そのうちっていつ」
「だから! そのうち!」
このやり取りも何回繰り返したか。両手じゃ足りないかもしれない。もはや数えるのも面倒だ。
「何もしないっつってるのに」
後ろを振り返って矢野の見ると、口元に微かに笑みが浮かんでいた。楽しんでる、こいつ。
「嘘つけ」
矢野の隣にいるという自分にも慣れてきた、と思う。
「真琴が好きだからしょうがない」
しかしこの台詞のかわし方は未だ掴めていない。とりあえず思いついた台詞を言ってみる。
「あ、ありがとう……?」
矢野は吹き出した。どうやら今回も正解ではないらしい。
笑いをこらえる矢野を睨みつつ、俺は内心では矢野の『好き』を聞く度にうれしくて、どうしてか安心していた。
でもふと我に返って、果たしてこれは本当に恋愛感情なんだろうかと自問自答する。
矢野のことは勿論嫌いじゃない。好き、嫌いのどちらだと聞かれれば好きだと即答できる。
本当に? これは優越感ではないのか? 好きだと言われて口説かれて、いい気になっているだけじゃないのか?
焦れる矢野を見てうれしくなっているのも事実。これではいけない早く答えを出さないと、と考えれば考えるほど深みに嵌ってはっきりとした答えは出せないままだった。こんな中途半端は、自分でもずるいと思う。
ずるい俺を見て矢野は引いたりしないだろうか。嫌いになったりしないだろうか。もういいや、と諦めたりはしないだろうか。
お前一体俺のどこが好きなんだ。
「なんか言えよ、真琴」
真剣に悩んでるのに矢野ときたら、片手で俺の髪をかき回してくる。ムッとして返した。
「なんか」
「は?」
「だから、言った。『なんか』」
「……かっわいくねぇ」
元々俺は可愛くない。
手を外そうともがいたが、なかなか剥がれない。首にがっちりと腕を回される。
くだらないやり取りをしながら、先に見える角を右に曲がればすぐ家庭科室の扉がある、というところだった。
男子が曲がってきた。
めったにこの棟に用事のある生徒はいないから、ひどく驚いて上履きを見る。俺達と同じ色だから一年だ。そういえば見たことがあるような、ないような。同じ学年の男子は少ないとはいえ、俺は全員を把握していなかった。
しかし無言ですれ違うのもいかがなものかと口を開きかけたものの、なんて言ったらいいのやらとまた口を閉じる。俺の首に腕をまわして頭に顎を押し当てている矢野は、誰とすれ違おうが無視するつもりのようだった。
すれ違う瞬間だった。
「ホモかよ。きっもちわりぃ」
心臓が大きく鳴った気がした。
まるで思いもよらなかった背後から刃物を突き付けられたみたいだった。鋭利な刃物は冷たくて、ぶるっと震えた体が急速に冷えていく。
「なんか言ったかよ」
矢野は立ち止まって振り返った。首に矢野の腕があるから一緒に振り返るとすれ違った男子はそのまま踵を踏み潰した上履きをパタパタいわせながら走り去って行った。
「なんだ、あいつ」
矢野が憎々しげに言ったけれど、俺はあまりの驚きで声が出なかった。矢野の腕がなかったらその場にへたり込んでいたかもしれない。
「あいつ、家庭科室から出てきたんじゃないか」
矢野は少し先の家庭科室を指差す。
ここは特別棟だ。この棟を使っている部活は料理部しかない。放課後、ここ以外の場所に用事がある生徒はまずいない。
ガラリと扉を開けるとすぐ部長が笑顔で振り向いた。
「あ、二人とも一年生の男の子とすれ違わなかった? 探してたよ」
「会いました。誰っすか、あいつ」
「あれ? 知り合いじゃなかったの」
確か、馬場君って言ってたよ、そう聞いた途端に矢野は鞄から携帯を取り出してなにかを打ち始めた。
「メモ?」
今聞いた名前を忘れないようにメモしているのだと思った。
「メール。牧に」
メール? 牧君に? なんで?
「あ、じゃあ。今日はこれで。お疲れっした」
そう言って矢野は一人で家庭科室から出て行った。
お疲れ様もなにも、今来たばっかりだ。
「なんだったの。和田君」
「さあ……」
馬場君とやらに言われた言葉は部長には言えなかった。これが全く的外れな暴言だったら憤慨して、聞いてくださいよ! とかなんとか言えたかもしれないが案外間違いでもなかったのだ。
『ホモ』だって。『きもちわるい』って。現実を叩きつけられたようだった。




