1.はじめ
どうも自分は感情の起伏が表に出ない質らしい。
そう気づいたのは物心ついた頃だった。自分では微笑を浮かべているつもりでも、いざ鏡を見れば口角の角度はあまり変わらない。よくよく観察してみるとどうも口自体が小さいらしい。口角が下がった状態が常で、にんまり笑ってみても唇が真一文字になるだけだった。自分の顔に特に不満を持ったことはない。しかし、仕方ないと諦めながらも努力でどうにかならないだろうかと無駄な足掻きをするくらいには気にしている。
朝。洗面台の鏡を見て俺は、まず口を開けた。
「あー…」
起きてすぐに顔の筋肉を動かすようにしている。自己分析の結果だが、緊張が表情を作るのを邪魔しているらしい。鏡に向かって口角を必死で上げてみれば、微笑のように見えなくもない。…相手が気づくかどうかはわからないが。
とりあえず、リラックスすればいい。自分に言い聞かせる。リラックスさえしていればどうにかなるはずだ。
そう、鬼門は今日から始まる高校生活だ。
今までの自分を思い返してみるとすんなり馴染むのはどうも難題のように思えた。気合を入れた鏡の中の俺は更に顔が硬くなっている。
進学を決めた青滝高校は、家から徒歩十分の駅から電車で一時間そして駅前のバス停から三十分、計片道一時間四十分の場所にある。街の中心地から大きく外れていて国道脇にある青滝高校は、決して俺の家の近くにあるとは言えない。実は家から自転車で十分の場所にも高校はあり、中学で一緒だった同級生の大半はそっちに進学した。
公立ではあるが、元は女子高らしい。共学になって久しいが、お嬢様学校としてのイメージは未だにある。偏差値も高く俺は必死で勉強してなんとか合格することができた。わざわざ俺の中学地区から青滝高校を選択する生徒は少ない。だが敢えてこの高校を選んだ。理由は一つ。
比率だ。男女比率。
女子の比率が高い。俺の中学はどういうわけか男子が九割で、まあそれも楽しかったが、俺は女子が普通にいる環境に慣れるべく青滝高校を選んだのだ。ゆくゆくは彼女だって欲しいと思っていた。
しかし人間慣れないことはするもんじゃない。
入学式を終えて教室に入り出席番号順に席に着くと、男子の人数が想像以上に少ない。数えると、俺を入れて五人しかいなかった。
やっぱり皆と同じ高校を選べば良かった。慣れない高らかな女子の声に心なしか胃が痛い。やっていけるだろうか。
担任は数学の男の先生だった。声が大きくて身振りが大きい。俺は第一印象で苦手だと思ったが、最初から苦手意識を持つというのも失礼かもしれない。
配るはずの日程表を職員室に忘れたとガタイのいい先生は悪びれた様子もなく豪快に笑って教室を出て行った。先生がいなくなった教室は一様に張りつめた空気から解放されて、周りと雑談を始める。ざわざわとした声に焦りを感じる。
俺は和田だから、出席番号は一番最後だ。そして俺の列だけ一人分長く右隣はいなかった。左は窓で話すとしても前しかいない。幸い前は男子で、誰とも話さずに暇そうにしている。
これはチャンスだ。
入学式の時は隣だったが、名前を呼ばれて椅子から立ち上がる動作だけに集中していたから顔も名前も確認していなかった。
それにしても広い背中だ。まだまだ伸びると信じているが一六十センチをやっと超えたくらいの俺に対して、一七五は優に超えているんじゃないだろうか。がっしりした体格に長い手足。足は窮屈そうに投げ出されていた。少ない男子同士すぐに仲良くなれるに違いないと勇気を持って声を掛けることにした。
「な、なぁ」
背中をトントンと突く。
「あ?」
振り向いた男は、大変なイケメンだった。この展開は予想していない。
「えっと…」
完全に出鼻を挫かれた。どこ中出身?なんて当たり障りのないところから話し掛けようとしていたのだがあまりのイケメンぶりに会話などすっ飛んでしまった。そういえばクラスの皆はチラチラとこちらを気にしている。誰にも話し掛けられていなかったのはその類稀なる神々しい顔に皆気が引けていたかららしい。
「ああ?」
パーツパーツが大きめで言うならばちょっと濃いめの目鼻立ち。真っ黒な瞳はバサバサの睫毛に縁取られ、不機嫌そうにしかめられた顔は美形も相まって恐ろしかった。瞳と同じ真っ黒い髪は校則に引っ掛からないギリギリの長さで、もしその厚い唇で微笑を作ったならその辺の女子なんか全員ころりと落ちてしまうだろうことも容易に想像できた。黙ったままの俺に腹が立ったんだろう。
「何もねぇなら話し掛けんじゃねぇよ」
「ハハッ…ごめん…」
なんとか笑って誤魔化そうとしても口角は緊張もあってピクリとも動かない。乾いた、客観的に見ても笑い声とも思えない声が出た。
「なんだその顔。気持ち悪ぃ」
チッと舌打ちをしてそのまま前を向く。一瞬見えた横顔はやはりイケメンで、イケメンはどの角度でもイケメンなんだなと妙に感心してしまった。
完全に俺は失敗した。人間慣れないことは本当にするもんじゃない。
名前と顔を覚えるまで一、二ヶ月くらいは席変えしなくてもいいだろうという先生の提案のせいで、なんとも居心地の悪い高校生活がスタートしたのだった。




