結婚の定義-前
三部作ラストの章です。
大人に成長した若様とニーアのお話。
「ふぅ~いいお湯ぅ」
もくもくと煙を吐き出す火山を眺めながら、地獄岩に寄りかかる。
地獄の第2階層にある、名物『血の池温泉』。
その名の通り血のように紅い温泉は、見た目はアレだが、入ってみれば普通の薬湯だ。
適温に設定されており、なかなか気持ちがよい。
しかも美容成分的なものがふんだんに含まれているらしく、入ると肌がつやつやになるのだ。
その驚くべき効果を知り、すっかり常連となってしまった。
――まあ、これも今日で見おさめ…というか浸かりおさめなんだけどね…。
私は頭に血まみれタオルを乗せ、はあ、と息をついた。
******
私は日當 閨乃、元人間だ。
高校2年生の時、とある悪魔のせいで命を落とし、こうして地獄で死人として生活している。
もし生きていれば21歳…今ごろ大学生活をエンジョイしているはずだったが…まあ、仕方ない。人生色々ってことよね。
この地獄で私に与えられた名前は『ニーア』。命名はなんと、第5142代悪羅王のご子息―つまり閻魔様の息子である(ここは自慢ポイントだ)!
何故私が閻魔様の息子と知り合いかと言うと――何を隠そう、私が彼の育て親だからだ。
そこに至るまでの説明は端折らせていただくが―とにかく。
私ことニーアは、その若様を成人まで育ててくれと閻魔様に頼まれ、今までずっと彼の成長を見守ってきたわけだ。
そして―若様、アディル=オルクール=デルンブルク様も先日、めでたく成人を迎えられた。
若様お一人のための成人式はそれはそれは素晴らしい式典で、私などは感涙の涙すら流してしまった。
―あの小さかった若様がこんなに立派になって…!みたいな。
…ま、実際面倒を見たのは4年たらずなのだが。まあまあ、いいじゃないの、その辺は。
―そういうわけで。無事に大人の階段を登った若様。
そして、もう若様を育てる必要のなくなった私はお役御免となり。
本日、輪廻の輪というものにのって、来世に転生するらしい。
――え、嘘、もう『私』とお別れ!?そんな、どうしよう!
……と昔は思っていたものの、実は今ではあまり未練はない。
地獄に居る間に、両親や友達と『今までありがとう、バイバイ……!』みたいな感動イベントは済ませたし(申請すれば意外と簡単に人間界に行けた)、
地獄グルメは十分に堪能したし、
閻魔様に言われたお役目は最後まで全うできたし……
―何より、成人しご立派になられた若様をこの目で見ることができたのだ。
育て親としてこれ以上の幸福はないでしょうよ、ねえ?
そんなわけで、意外と冷静にことを受け止めた私は、お迎えの悪魔が来るまでのんびり温泉に浸かっていたという次第である。
風呂から上がった私は服に着替え、鬼印のコーヒーブラッド(この世界は余程赤が好きらしい。いや、味は普通のコーヒー牛乳なんだよ?ただ真っ赤なだけで。)をごきゅごきゅと飲んだ。
うーん、風呂上りと言えばやっぱりこれよね。うまい。
満足した私は、空になった瓶と血みどろのタオルをぽいと籠に投げ入れ、今度は髪を乾かすことに専念した。―といっても『呪』(この世界の魔法のようなものだ)によって一瞬で乾くのだけど。
―さて、次は何をしようかしら。
私は『呪』を発動させつつ思考する。
まだ例の悪魔が来るまで時間がある。せっかく温泉に来たのだし、真っ赤な温泉まんじゅうを買って食べようか、それとも近くの小鬼と一緒に卓球(的なもの)を楽しもうか――
そんなことを考えながらのれんをくぐった時、
「ニーアちゃん。」
目の前に、見慣れた男の姿が見えた。…あらま、驚いた。
「げ、もう来やがった。」
「うん、いつも通り無礼な歓迎だね。」
「あ、すいません、つい本音が。」
「言うね。」
すると青い髪の悪魔――デレクは肩を震わせて笑った。
そう、この男こそが私の迎え役の悪魔だ。
いつも通り食えない笑顔でこちらを見ているが、腹の中では何を考えてるのか分かったものではない。
…良くも悪くも非常に悪魔らしいのだ。彼は。
「約束通り、迎えに来たよ。」
「それはいいんですけど……早すぎません?」
予定では今日の夕方だったはずだが、現在はまだ昼過ぎだ。
悪魔に問いただすと、彼はのんきに答えた。
「はは、すねないでよ。こっちも予定が変わってさ、早いとこ君を連れて行かなきゃいけなくなったんだよね。」
「…予定?」
「そ。アディル様の仕事のスケジュールが、ね。」
肩をすくめるデレク。
―なんでも今、若様は悪羅王さま(若様の父親だ)と一緒に執務に励んでるらしい。
成人してからというもの、仕事の勉強で忙しいようだ。
「へえ、そうなんですか。」
「ああ、心配しなくても今日のことは話してないよ。…約束通り、ね。」
「はい。ありがとうございます。」
「でもいいの?本当に何も言わないまま行っちゃって。」
「…いいんですよ。」
私は真っ赤な空を見上げ、ぽつりと呟いた。そして彼との日々を思い出す。
若様――アディルは私にものすごく懐いていた。
甘えん坊というわけでもなさそうだったが、何故か彼は育て親である私と四六時中一緒に居た。
昔は『子どもだし、まあいっか』と軽く考えていたが、幼児期を過ぎ少年期に入り――それでも私にくっついて離れてくれないアディルに、これはまずいだろう、と思い至り。
彼の年齢が10を過ぎたあたりから思い切って『親離れ作戦』を決行したのだ。
具体的に言うと、旅行に出て、その期間中他の人に預けたりとか、わざと家に帰るのを遅くしたりとか。私が任期を終えたら地獄を離れ、転生することは決定していたのでなんとかその前に私から離そうと思ったのだが……結果、大・失・敗。
旅行に行けば、どこから嗅ぎつけたのか必ず宿に彼がいたし、家に帰るのが遅れれば、私のもとに転移してきて『遅い!』と文句を言われた。
――そして月日は流れても育て親への愛情が薄れることはなく。
若様はそのままスキンシップ過剰な青年へと育ってしまったのだ。
ゴメン、閻魔様。育て方たぶん失敗しました。てか、私には無理でした。
――もう、これはトンズラしかないよね!?
「閻魔様の執務室って……」
「ああ、地獄の第332階層だね。」
―深い。若様と言えど、すぐに上がってくることは不可能だ。
「じゃ、問題ないじゃないですか。彼が戻ってこないうちにさっさと行きましょう。」
「ただ、ねぇ…アディル様も……。」
「何ですか?」
「…いや、何でもない。行こうか。」
何やらもごもごと言葉を濁したがすぐに言い繕い、悪魔はバサリと漆黒の翼を左右に広げ、私を抱えて飛び立った。
*********
数十分後。私は真っ白な空間の中、立っていた。
真っ赤な背景を見ていたかと思うと、いきなりまばゆい光が目を刺し――いつの間にか、この清潔感あふれる(病院的な意味で)場所に来ていたのだ。
なに、ここ。私は呆然とした。
「えっと、ここが……」
「―天と地の境界。死後の人間が最終的にたどり着く場所だよ。」
おお、流石説明係。補足助かります。
私はいつも通り、影のように後ろに立っている悪魔を振り向いた。
「―で、どこに『輪廻の輪』があるんですか?」
「もっと奥に行った所だよ。」
「奥って……何も見えませんけど。」
ためしに目を凝らして見るが、やはり何も見えない。真っ白な空間が広がっているだけ。
…欠片も見えないんだけど、そんなものホントにあるの?
「ここはまだ入口だから、見えないだけだよ。歩いていたらそのうち見えてくるはずさ。」
「…はあ。」
――らしい。にわかには信じがたいが、悪魔がそう言うのだからそうなのだろう。
私は曖昧に頷き、前方を見やった。はあ、と息をつく。
―さて。ここからは歩き、ということだが。
目標が全く見えないということは相当の距離を歩く必要がある。
…いや、待てよ。案外すぐにたどり着くのではないか?
途中で転移装置があるとか。もしくは『呪』で隠して見えなくさせてるだけかも?ほら、防犯上の理由とかでさ。そりゃ管理者だって余計な手間はとりたくないだろうから、きっとすぐそこに――
「――じゃ、そういうことだから、あとよろしくね。」
「え!?」
そこで私は思考を断絶した。
慌てて振り向くとくるりと踵を返した、帰る気満々アクマ。
…嫌な予感。
「ま、まさか。もう行っちゃうんですか?」
「え、そのつもりだけど。」
「ちょ、ええ!?待って下さいよっ!」
―い、いつぞやと全く同じ展開っ!ちょ、待てやああああ!
必死で男に飛びつき、腕を掴んだ。
「えー。だって俺、さっさとここから出たいし。ちょっと気分悪いし。」
「少しは私を見送ろうとか、思わないんですかっ!」
「ここまで送ってあげたでしょ。大丈夫だって。この空間は誰も入ってこれないし、すぐ着くって。」
「そういう問題じゃないー!」
やる気なさげに、だるーく言葉を重ねる悪魔。本気で帰りたそうだ。目が死んでいる。
…いやいやいや、私を『輪廻の輪にのせる』までが仕事だろ!最後まで面倒見ろよぉおお!
「無理無理。俺、今からまたやらなきゃいけないこと、あるんだよね。」
しかし、私の必死の説得にも応じず、さらりとかわすデレク。
長々と粘っていたが、私も彼が動かないと悟ると、諦めた。
―もういいわ。お前なんて職務怠慢で給料下げられてしまえばいいんだっ!
不貞腐れてそっぽを向く私を横目に悪魔はまたバサリと翼を広げ、発つ準備をする。
彼は青い髪を揺らめかせ、にいと口角を上げた。
「じゃあ、お別れだね。ニーア……いや、閨乃ちゃん。」
「…覚えてたんですか、私の名前。」
「そりゃあ、元後輩だからね。」
くつりと笑う悪魔。シカトしてやろうとしばらくは黙っていたが、やはり口を開いた。
「来世って、もう決まってるんですか。」
「そうだね。種族や区分くらいは決定してるだろうね。」
「…私、来世でも人間になりたいです。」
「そう。じゃあまた、屋上に呼び出してあげるよ。」
「その時は、全力で拒否しますから。」
最後は、そんな冗談みたいな会話だった。だが、彼も私も満足げにふっと笑った。
じゃあね、と手を振ったデレクは地を蹴って飛び立つ。一瞬で見えなくなった彼を見上げ、私も足を踏み出した。
――もうすぐ。『私』が終わる。
日當閨乃、そしてニーアとしての私が、終わりを告げる。
だが後悔なんてしない。大往生、とまではいかなかったが、私は私として精いっぱい生きた。
そのことを胸に、堂々と転生してやろうじゃないか。
私は、はだしの足を前後に動かし白い空間の中をさまよった。