子育ての定義-後
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「わあ。」
再び覚醒。ばっと顔を上げるとそこは、なんと一面のお花畑でした。
色とりどりの花が風に散っていくさまはまさに幻想的で、ファンタジーって感じ。
あらまあなんてきれい。
「…で、今度は何処なの。」
「若様のいるところだよ。」
うわ、びっくりした。
私がぼけっと突っ立っていた隣に、いつの間にやら先輩がたたずんでいた。
ばさ、と大きな翼が音を立ててはためく。私はちらっとそちらを向いてわざとらしくため息をついてやった。
「なんだ、いたんですか。」
「なんだ、いない方がよかった?」
「いてもいなくてもいいですが、一応居てくれた方が心強いと言えなくもありません。」
「…なんか恨まれてる?俺。」
「いえ、別に。」
冷たく言い放って歩き出すと、彼が後ろからのこのこついて来る。
その気配を感じ、少しだけ安心したのは内緒だ。
「それで、この花畑のどこに閻魔様の息子が?」
「…あれ、意外と順応早いね?もっと泣きわめくかと思ったけど。」
「泣きませんよ。」
こちらの顔を覗きこんでくる先輩に対し、私はどこかふっきれたように強気な表情を浮かべて見せる。
…いや、キラキラさせた目をこっちに向けんな、このドS悪魔が。泣かないって。
はあ、と何回目かのため息をこぼしつつ、私はぼやく。
「それに、泣いてる場合じゃありません。…どっちにしろ死亡旗ですからね。」
そう、冷静に考えてみれば、私はこの世界では何の力も持たない死人。
閻魔様の頼みを断ろうが有害危険物指定の彼の息子に会おうが、同じような結末しか残されていない。
「どーせ、私に選択権なんかないんでしょう?」
「ま、その通りだけど。よくわかってるね。」
地獄という場所、そしてそこに住んでいる生物の理不尽さはとうに思い知ったからね。
急に殺されたとかしかも子守りしろとか、色々ツッコミどころはあるが、まあ人外に囲まれるともう何にも言えないわ。
元々地獄に落とされると思ってたんだ。まだマシだろう、と腹をくくる。
もう、どーにでもなぁれ。
「で、その赤ちゃんは何処に?」
「彼に会いたいなら、名前を呼んであげて。」
「は?」
「ここは、もう若様のテリトリーなわけだから、呼べば会いに来てくれるよ。」
「そうなんですか。名前は…」
すると先輩は私の耳元でその名前を教えてくれた。
んー長い。しかも濁点多い。全部言えるかな。えっと……
「アディル=オルクール=デルンブルク?」
あれ、敬称つけるの忘れちゃった。と思うが早いか、
「だあっ!」
花畑の中から、いきなりわさっとなにかが飛び出してきて。
あっという間に懐に入られ、抱きつかれてしまいました。ばふっと花畑に飛び込み、花弁が舞う。
「わ、ええ!?何これ!」
我に帰った私が慌ててその物体の正体を確認すると、それは赤ん坊だった。
赤い髪に、闇色の瞳。茶色の絹の服をまとった短い手足。見た感じ1歳未満の普通の赤ん坊だが、頭にぴょこんと可愛らしく角を載せているあたりが彼を人間ではないと思わせる。
あ、もしかして、これが……
「若様……?」
「だーう!」
あ、肯定された、のかな?ぐりぐりと大きな頭を私の胸にうずめ、こすりつける姿は何とも愛らしい。
顔を横に動かし、先輩に確認をとったところコクリと頷かれた。
え、本気で?この子が、人を灰にしたとかなんとか言われてる閻魔様の息子?
…初対面にして、なんかめっさ懐かれてるんだけど。
「あ、あの。」
「あう、あうあー」
「えっと。」
「だう、あうだだだ!」
あ、赤ちゃん言葉は理解できません。
とりあえず興奮している若様を抱え上げ、どうどう、といなしてみるとぴたりと静かになった。
ああ、聞きわけはいいのね。
「あの、私、日當閨乃と申します。」
「うあ?」
とりあえず自己紹介でも、と話しかけてみる。
私の言葉が分かるかどうか不明だったが、若様は目をぱちくりさせてたどたどしく口を動かす。
「ひとお、にゅあーの?」
「閨乃、です。」
「にやーの?」
「ね・や・の。」
「にーあーにょ。」
…駄目じゃこりゃ。発音しにくいのかしら私の名前って。
「にーあ!」
「え?」
「にーあ、にーあ!」
すると、若様は私を指さし、『にーあ』と言って可愛らしく笑う。
いや、だから閨乃だって。
私が息をつきつつ若様を見下していると、悪魔が隣から横やりを入れてきた。
「いいじゃん。ここでの名前、『ニーア』にしちゃえば?」
「先輩まで何言ってるんですか。」
「ここで生活してくって決めたんだろ?もういっそ改名しなよ。俺も思ったんだけどニホンジンの名前って、発音しにくいんだよ。」
「そんなこと言われても……」
親からもらった名前をあっさりと捨てていいものか。
ちらっとにーあにーあ言ってる若様を見下す。若様はこぼれそう大きな目をぱちぱちと瞬かせ首を傾げた。
…うう、可愛い。閻魔の子のくせに天使のような笑顔を見せるんだから、この子ってば。
「…まあ、いいです。若様もそれが気に入ってるみたいだし。」
結局、私は肩を落としそれに同意した。名前が呼びにくいのなら仕方ない。まあいいか。
てか、逆に命名若様ってすごくね?
「にーあ!」
すると抱っこされている赤ん坊は喜び、私の胸にまた顔を埋めてきた。
はしゃぐ若様の背中をぽんぽんと叩き落ち着かせていると、先輩のあきれたような声が降ってくる。
「そ。しっかしスゴイ懐かれようだね。」
「ええ、本当にこの子が、そんな凄まじい力を持ってるんですか?」
「そうだよ。今まで何度この地も焼かれたことか。」
「…いや、そうは見えませんケド。」
ちらりと大人しく顔を擦り寄せてくる赤ん坊を見る。まったくの人畜無害に見える(赤ん坊に対する表現としてはおかしいが)この子が、本当に閻魔様の息子なのだろうかと逆に疑ってしまうほどだ。
「………まあ多分閨乃ちゃんだから、だけどね。」
先輩が何やらぼそりと呟いたが、その小さな言葉は風に流され私には届かなかった。
花弁が空気中に舞い、細かな塵となって消える。
「え?何か言いましたか?」
「いや?何でもないよ。…じゃあ俺、もう行くね。」
「ええ!そんな、この状況で!?」
がばりと勢い身体を起こすと、赤ん坊が花畑の上にころんと転がった。
あうーと不満げな声が上がるが、そんなことは今、気にしていられない!
ほ、放置する気ですか、先輩!!
「俺、元々仕事あるしー。人間界に留学してた時のこと、報告しに行かないと。」
「ちょ、待って下さいよ!しかも留学で来てたんですか!?」
私は殺されたってのに、アナタは随分と楽しそうな用事で人間界にいたんですね!
てか、マジで待って。ホントに待って。このまま置いてくなあああ!!
文句やら不満を爆発させ、必死で追いすがる私。先輩はまた面倒くさそうに頭をかいた。
「あー、分かったよ。報告終わったらちゃんと様子見に来るからさ。」
「そういう問題じゃ…!」
「…それより、ほら。あそこ見える?」
「へ?」
指を指された方を見ると、そこには一軒の家があった。二階建てのレンガ造りの可愛らしいお家だ。
三匹のくまでも住んでそうな。
あれがどうしたんだろう?視線を再び先輩に戻すと、彼は薄く笑った。
「あれ、君らが今から暮らす家だから。」
「へ!?」
「おむつ、ミルク、その他ベビーグッズとかは大体のものは中に揃ってるよ。足りない物があれば通信機を使って、言って持ってこさせればいい。」
「えええ!?」
先輩はそうやって言うだけ言うと、私の悲痛な叫び声は無視して詠唱を始めた。
そして、転送陣?というのだろうか。何やら青白い光が先輩の体を包み始める。
「そーゆーワケだからよろしくね、『ニーア』ちゃん。子育てガンバッテ。」
最後に、ひらひらと手を振ってそう言い残すと先輩は一瞬でその場から消えた。
……いや、逃げた。俗に言う、言い逃げってヤツだ。しかも、こんなわけわからん最悪の状態で。
後に残されたのは、私と赤ん坊のみ。ふわふわとただよう花の香りが、やたら鼻についた。
「…いっ、ちゃった……」
「だーう」
「…どうしましょうね?若様…」
「あうあう。」
あうあう、じゃないっての。私は何度目か分からないため息をついた。
―見知らぬ地で、17歳、初子育て。しかもお相手は次期閻魔様。
…子育てとか言われても。経験ないしどうすればいいか分からないだけど。とりあえず幼稚園年少組だった妹と同じ扱いでいいんだろうか?
…だめだろうなー。なんたって、閻魔様だもんなー。ははは。
……。
「…とりあえず、行きますか……」
「あうっ!」
まあ、こんな所で立ち尽くしていてもどうしようもない。さっさと不毛な考えを放棄した私は力ない笑みを浮かべて歩き出した。
…真っ赤な髪の赤ん坊を、しっかり腕に抱えて。
―ああ、どうなることやら。
******
それから。二人で暮らし始めてあっという間に半年という月日が流れた。
当初は慣れないこともあり若様への対応も戸惑っていた私だが、伊達に元五人兄弟の長女をやっていたわけではない。食事も洗濯も掃除も若様のお守も、すぐに慣れて順応した。
…驚くべきはこの世界の家事は案外便利だったということ。科学レベルは元の世界より遠く劣っているものの、火をおこすのも水をひねり出すのもすべて『呪』(ジュ)と呼ばれる魔法のようなもので行われるので、調節が楽ちんだ。掃除・洗濯もぜんぶ『呪』まかせ。わお、便利。
食材や消耗品も、先輩が言っていた通り電話一本ですぐに運ばれてくるし、転移の『呪』で町に出かけることもできる。
用意されていた環境はまさに至れり尽くせりといったところ。
まあ、次期閻魔様を育てるわけだし、これくらいは当然なのかもしれないけど。
―そんなわけで、すっかりこの地獄になじんだ私。若様の上手い扱い方も編み出し、順調に子育てをしている。
若様は元気で、物覚えが良く聡明で、とっても可愛らしいお子だ。
…だが、ひとつ問題が。
「ニーア、ただいま!」
私がいつものように食事の準備をしようとテーブルの上で豆をむいていると、玄関の扉が勢いよく開き子どもが走ってくる。そして、飛びつかん勢いで私に抱きついた。
燃えるような赤髪を揺らし、黒い瞳をきらきらと輝かせる男の子。
……そう、『男の子』、だ。人間であれば年の頃、3~4歳といったところか。
若様――アディルは、成長がとてつもなく早かった。
「お帰り、若様。」
「…ニーア。俺は『わかさま』って名前じゃない。」
私が声をかけると若様は不満げに口をとがらせた。
ぶう、と頬を膨らませる姿は非常に可愛らしい。私は思わず顔をほころばせ、頭を撫でた。
「はいはい、アディル。おやつがあるから手を洗ってきて頂戴。」
「うん!!」
途端、満面の笑みを浮かべて洗面所へと走っていく若様。
うーん、素直ないい子だなあ、相変わらず。私は苦笑しながらその背を見送る。
―若様は最初の3日で歩くようになり、ものの一週間前後で言語を習得し、学校(地獄にもあるらしい)に通うようになった。最近では次期閻魔様になるための政治学やら帝王学やらを学んでいるそうな。
…おそらく私の知能を軽く追いぬく日もそう遠くはない。
「…でも、いくらなんでも成長早すぎでしょ…」
「いや、こんなもんだよ。」
「―!?」
「久しぶり、ニーアちゃん。」
ふう、と肩を落とした途端に急に声が聞こえた。私は驚いて背後を見る。
そこには。先輩―デレクと名乗った悪魔の姿があった。
入ってきたのだろう、入り口の扉を背にもたれかかり、また底の知れない笑顔を浮かべてひらひらと手を振っている。
一瞬の静止の後、私はギンッと彼を睨みつけた。
「…とりあえず、殴っていいですか。」
「わ、随分と暴力的になったね?」
「違います!でも半年も放っておかれたこっちの身にもなってください!」
私は先輩に冷たい視線を送りながら怒鳴る。しかし怒るのも無理ではないと思う。
―そう、半年だ。報告とやらが済めばすぐに様子を見に来ると言った先輩だったが、その後まさか半年も放置されたのだ。
おかげでこちらの基礎知識をイチから詰め込まねばならなかった。
…結構苦労したんだぞ。
「まあまあ、落ち着いて。」
「ふん、人事だと思って。酷いです、サイテーですよ先輩。」
「不貞腐れないでってば。悪かったよ。」
しかしくすくすと笑う先輩は全く悪びれた様子がない。この野郎、ホントに殴り倒してやりたい。
私がこぶしを握っていると、先輩は『ゴメン』と言いながら軽く頭を下げる。そしてふと真剣な表情を作った。
「……それよりさ、順調そうじゃん?子育て。よかったね。」
「はあ、まあ。若様はいい子ですから…」
「いやいや、あれだけ『いい子』に育ったのは君のおかげだよ。周囲の者からの評判もいいし。流石、ニーアちゃんだね。」
「…いえ……」
…そうまっすぐに褒められると、素直に照れる。
私は頬をほのかに染め、気恥ずかしさから顔を逸らした。さっきまでの怒りはしぼんでどこかへ行ってしまったようだ。
これが悪魔の力というやつなんだろうか、それとも私が単純なだけだろうか。
…両方かもしれない。
「あの、」
「ん?」
どうにも居心地が悪くなった私は、取りつくろうように先輩に問いかけた。
せっかく来てくれたんだし、と子育てをしていて一番の問題を聞いてみることにした。
「若様はとても賢くやさしい子に育っています。しかし、さっきも言いましたが成長が早く、頭もどんどん良くなっているようで…正直言って、私には今後彼が大人になるまで面倒をみる自信がありません。」
―早い話が、私では役者不足、ということだ。
やはり若様は次期閻魔様ということもあり、半端ないスペックの大きさをその幼少時から発揮している。政治、社会、芸術、音楽など様々な分野に通じ、賞讃を浴びることはしょっちゅうあった。また同時に、ちょっかいをかけてきたいじめっ子の家を燃やしたり、強盗を追ってそのアジトごと退治したりと、強大なパワーを制御できず色々と事件を起こしたものだ。
―彼の強さを目の当たりにする度、『私には無理だ』と何度思ったことか。
どんなに可愛くともやはり若様は地獄の王子様だ。元人間だった何の力ももたない私が若様を育てるなんて、元々恐れ多いことだったのだ。彼が大きくなるにつれいずれ抱えきれなくなるだろう、というのが一番の悩みだった。
私は切実な思いを打ち明け、先輩を見上げる。すると、彼は自身の青い髪をいじりながらこともなげに答えた。
「…いや?問題ないよ。育てるといってもあともう少しだからね。」
「え?」
「あと4年もしないうちに君の役割は終わるから。」
「は?」
ニヤリと先輩の口角が綺麗に上がる。対する私は、また唐突になにを話し始めたのか、と眉をひそめた。先輩は『だからね、』と前おいて、私の耳元でその詳細を語った。
「――。」
それを聞いた瞬間、私は絶句し目を見開く。衝撃が体を走りしばらく思考が停止してしまった。
立ち尽くす私を、いたずらが成功した子どものように無邪気に覗き見る先輩。
「ニーア!手、洗ってきたぞ!今日のおやつは何……」
―そうこうするうちに、若様がばたばたと音をたてながら帰ってきてしまった。だが、玄関先に立っている先輩と私の姿を確認した途端、ぴたりと動きを止めた。
「…誰だお前。ここで何をしている。」
―そして、彼の口から飛び出してきたのは別人のような、低く冷たい声。
普段の彼からは想像もつかないほどの恐ろしい声色に、私は身震いした。
「はは、待ってよ若様。そんな怖い顔しないで、ニーアちゃんがおびえるでしょ?」
青ざめた私をちらりと覗きながら先輩が言う。すると若様はハッとし慌てて魔力を収め、雰囲気を幾分か和らげた。
…さ、流石、若様。やっぱり怒るととっても怖いんだね。
「っ、用が済んだならさっさと立ち去れ!ここは俺とニーアの家だ!」
「はいはい、分かってますよ。じゃそういうことで、ばいばい、ニーアちゃん。」
「…あ、はい…」
「…今度来るときは、『迎えに来る』からね。」
「!」
そう言い残すと先輩は踵を返し、家を出る。そして転移の呪を使って瞬く間に消えた。
私はその背中を呆然と見送っていたが、若様がくいっと服の裾をひっぱったのに気付き、視線を落とした。
「…ニーア。今のヤツ、誰?」
若様がぼそりと呟くようにそう問いかけて来る。私は腰をかがめ、若様と目線を合わせた。
「ああ、先輩…じゃなかった、デレクという悪魔よ。アディルも一度会ってるんだけど。」
「……初めてニーアに会った時、一緒にいた?」
「そう、その人よ。よく覚えてるわね。」
「………。」
「さて、じゃあおやつにしましょうか。今日は木の実を使ったパイを焼いて――「ニーア。」
若様が私の言葉を遮る。服を掴んだ手をさらに強く握りしめ、こぼれそうな瞳をいっぱいに開いていた。黒い瞳に、私の姿が映りこむ。
「ニーアは、何処にも行かないよね。」
―小さな声。だが、若様の不安が手に取るように分かった。
聡い若様は、先輩と私が何やら不穏な話をしていたのを何となく理解したんだろう。
…本当に、随分と懐かれてしまったものだ。
赤ん坊のころから若様は私から離れようとせず、ずっと一緒にいた。そのせいか、彼はひな鳥のように私につき従うようになってしまったのだ。
―直に閻魔さまになる子が、そんなことではダメでしょう。
頭の中の私は、そう警告する。しかし、迷子の子猫のように悲しげな表情をする彼を放っておけるわけがなかった。
―そう、半年も傍にいれば情も湧く。私も若様を見捨てることなど、すでにできないのだった。
「…ええ、もちろんよ。」
私はつとめて優しい声でそう答えた。すると彼はぱっと表情に花を咲かせ、うれしそうに私に抱きついてくる。
…可愛いなあ、ホントに。
若様のちょっと高い体温を感じながら私は彼の背中に手を回し、ぽんぽんとあやすように叩いてやった。若様の手にも力がこもる。
「――ずっと、一緒にいようね。」
「そうね、アディル。」
私と若様は顔を見合わせ笑う。穏やかな昼下がりの、心温まる風景。
しかし、そのハートフルな場面とは裏腹に私の内心はどんよりと暗い雲がかかっていた。
――なぜならそれは、嘘だったから。
何処にも行かないなんて約束はできない。ずっと一緒にいることなど本当は、できはしない。私が優しく若様に答えた言葉は全て、嘘っぱちだった。
若様を抱えながら、私はついさっき聞いた先輩の話を思い出す。
『魔族…特に若様のような上級魔族になるとね、成長は人間の約5倍…つまり人間換算で言うと一年で5歳年をとるんだ。君は最低でもあと4年…いや、3年半ほど若様のお世話をすれば、それで御役目は終わりさ。輪廻の輪に乗って転生してもらうよ。』
そう、つまりあと私がここに存在できるのは若様が大人に――成人するまで、ということ。
具体的に言えば、3年と半年。その時が来れば、私は彼の前から消えていなくなるのだろう。
……全く、地獄の連中は勝手が過ぎる。勝手に呼び出しといて役目が終わったらさっさと来世で生まれ変われ、だってさ。ヒトを何だと思っているわけ?
…いや、私はともかく若様が問題だ。自意識過剰ではないが、私がいなくなれば若様は高確率でパニックになる。そして有り余る力を暴走させて地獄の一つや二つ、半壊させてしまうのではないのだろうか。
――私がいなくても大丈夫なように教育する必要があるな…
可能なのかどうかは分からないが、そういう風にやるしかないだろう。私は残された厄介な課題にまたもため息をつきたくなった。
「…俺には、ニーアだけいればいい。」
そう若様がぽつりと呟いたのを聞こえなかったふりをして、私はしまっていたパイを取りだした。